「 追う女 」

 妻は、最近、何もかもやる気が起きず、洗濯も昼前の炎天下で干していた。
 朝の涼しいうちに干せば気持ちよく、爽やかに一日が始まるというのに、
同じ仕事をするのも汗ダラダラで、余計に悶々の種を蓄積している。
 うまくいっていない時は、何もかも悪循環になってしまうのだ。

 姑が、孫たちにと送ってきた揃いのトランクスを干しながら、
妻は、あ、と手を止めた。
 いつも夫の「ゴム伸びダボダボ巨大トランクス」を干していた妻にとって、
子供たちの小さなトランクスたちは、ビックリするほど可愛く思え、
ドールハウスのパーツを手に取るような感覚を覚えたのだった。

 小さな男だな、と、思わずつぶやいた。
 息子たち4人もいずれ汗臭くなり油臭くなり、
それぞれの妻たちに「しょうがねえな」と言わしめてしまうのだろうか?

―――さて私は何が不満なのだろうか?

 妻は、入道雲を見ながら考えた。

 結婚してから十数年、妻は夫に対しての不平不満で死にそうになっていた。
 もっとこうしろ、ああしろ、夫なんでしょ、父親なんでしょ!
 怒鳴ったり叫んだりわめいたり泣いたりしながら、
気付いたらSMの女王みたいに滑稽なほど威張った妻になっていた。

 何様なんだろう、私は―――。

 当時付き合っていた男の住むアパートに転がり込んだのは、
父親の暴力(言葉の暴力も含めて)から逃げる為だった。
 今まで身を呈して守ってくれた母親も、フルタイムの勤めに出てしまって、
母の留守中は無法地帯になってしまっていたのだ。
 ハタチ過ぎてからは、連日、「今までお前にかかった金を全部返せ」と言われ、
「死ね」だの「お前なんていないほうがましだ」などと、朝から晩まで、
これでもかこれでもか、というほど父は私をいじめた。
 自分に仕えているはずの母は、外で楽しく働いていて、
自分の方を向いていないこと、食事の世話もなおざりになってきていること、
息子が高校を勝手に中退してしまったことなど、
父を苛立たせるには充分すぎる材料が揃っていた。
 その頃の私の愚かだったところは、
そんな父の逼迫した気持ちをちっとも察してやることができず、
ただただ悪戯にいびってくる父親に打ちひしがれるだけだったところだ。

 逃げてきたのだ、私は。結婚に―――。

 ―――その男は、私を殴らなかった。
 ―――その男は、私を責めなかった。
 ―――その男は、私に苛つかなかった。

 それだけで妻は、その男の前で息ができていたのだった。
 結婚して12年。
 恋愛結婚と人は言うが、実際は非難結婚みたいなものだった。

 逃げている。
 妻は思った。

 今でも妻は逃げ続けていることを、突然自覚した。
 小さなトランクスを持って、妻は、また、あ、と声を上げた。

 妻は、夫を理想の父親にしようとしていた。
 子供たちの、ではなく、自分の父親にしようと。
 
 いつもニコニコ笑っていて、何をしても何を言っても受け止めてくれる父親。
 困った時には優しくアドバイスをくれて、俺にすべてまかせろ、心配するな、
と言ってくれる父親。
 お前が大切だ、お前は俺に必要な人間だ、と言ってくれる父親。
 そこまで言わないまでも、私の存在を許してくれる父親。

 しかし妻は、そんな素晴らしい男と結婚した覚えは無く、
当然、そんな父親が魔法のように現れるはずなど決してなかった。
 夫は、決して妻を揶揄しない代わりに、
妻や子供たちにまったく関心を持たなかった。
 いや、持っていても、それをオモテに表せないタイプの人間なのだ。
 黙って、口もきかず、一緒にいるだけだった。
 妻に責められて、やっと働くようになり、
稼ぎを家に入れるようになっただけ立派だ。

 しかし、私は―――。

 ただぼんやりと歌を聴いたり歌ったりして生きていた、
風のように自由なプータローを、
「家族を養う普通の男」へと強引に改造した自分は、
一体、どれだけ成長したというのだろう。

 子供を育てることは確かに大変な仕事だけれど、そのことを盾にして、
経済的なところで夫にぶら下がって安穏としているではないか。
 その上、細かいことをヤイノヤイノうるさく言いまくり、しまいには夫を
「この役立たず!」
「甲斐性なし」
と、顔を合わせれば非難している。 

 かつて父が自分に浴びせたようなことばを夫に浴びせ、
いじめ、いびり、コテンパンにへこまそうとしている。

 父は―――。

 恐らく、今の自分のように淋しかったのだろう。
 淋しくて淋しくて、どうにもならなくなって、
周りの人を傷つけてしまうタイプの人なのだろう。

 自分もまた、そうであるように。

 妻は、頭からだらだらとあふれ落ちてくる汗を、首をかしげてTシャツの肩で拭うと、
手にした小さなトランクスを竿に干し、
続けていくつもいくつもの洗濯物を干していった。

 ―――私は、ハタチまで、あのウチで頑張れたではないか。
 負けないように突っ張って、自分のプライドを命がけで守ってきたではないか。
 逃げているからダメなんだ。
 殴られても蹴られても、「明日は誰とどこで遊ぼうか」と、
楽しいことばかり考えていたあの頃の自分を思い出そう。

 何が不満、ではなく、何をしたいのか考えよう。
 楽しいと思うことをすればいいじゃないか。
 誰がそれをダメと言うのか?
 「死ね」と言われたことなんて、もう忘れてしまえ。
 あれは淋しさという悪魔が父にとり憑いて言わせた、泡のようなものだったのだ。

 妻は、これからは逃げないどころか、追うことにした。
  
 嫌なことから逃げまくっていると、その対象の嫌なことばかり探してしまう。
 楽しいことを追っていれば、きっといいことをたくさん見つけられるだろう。

 息子たちは、将来の妻を愛し、そして家族に愛される男になるだろう。
 優しい大人の男に成長するだろう。
 幸せなじいさんとなり、そして、ふんわりと死ぬだろう。

 ―――私が追う女になることで。

 妻は、2階から階段を駆け降り、ビデオを見ていたアカンボを背負って外へ出た。
 映画館や図書館、講演会や芝居小屋、ボランティアやスポーツセンターに行こう。 
 たしか託児室付きのがあったはずだ。

 玄関先を振り返ると、
「帰ってきたら夫をとっちめてやろう」と思っていた自分の抜け殻が、
黒いペラペラの湿った影となって、そこに落ちていた。
 ピーターパンは、なくした影をウェンディ―に縫い付けてもらっていたが、
妻はその自分黒い影をつまんで生垣に干した。
 家に帰ってくる頃には、そいつはカラカラに乾いてドライになっているだろう。


                      (つづく)

 おや?
 夫不在のまま進展していく事態。
 夫婦百態ではなかったの?
 親子百態にシリーズ変更か?

 夫が新しい仕事で奮闘しているさなか、
物語はつづく。
 知らんうち、つづく。


                      (つづく)

(夫婦百態) 2002.08.31 作 あかじそ