「 手が使えない場合 」

 今年の頭に左手のしびれから始まり、
左手親指と手首の腱鞘炎、
ならびに手根管症候群になった。
 手首を返したり親指を開いたりすると激痛が走り、
叫ばずにはいられないほど重症だった。
 9月までの9ヶ月間、
冬は、ロボットみたいな厳重な固定器具をつけ、
夏は、テーピングで過ごし、
皮膚のかぶれという問題も出てきていた。
 涼しくなってきた頃からは、
薄手のサポーターを重ねて使用し、
極力患部を固定して安静にし、
徐々にではあるが、痛みはひきつつあった。

 ところが、入浴時や洗顔時、
炊事や風呂洗いなどの水仕事の時には、
サポーターが濡れるので外す。
 すると、途端に左手首は、心細いほどぐにゃぐにゃになり、
ちょっと重いもの持っただけでも、すぐに悪化してしまう。

 一進一退。

 ああ、これでは、いつになっても治らないなあ、
と、ぼやいていたところに、先日の右手のボクサー骨折。
 ギブスとまではいかなかったが、
右手の小指と薬指、およびコブシを金属の板で固定し、
その上からぐるぐるに包帯を巻かれた。
 固定は、約3週間必要だとのこと。

 痛みは、ほどなくひいたが、
利き手が、親指と人差し指と中指の3本しか使えないというのは、
非常に不便なものだった。

 両手が少しづつ使えない生活が、
どれだけ不自由なものか、
朝の起床時から時間を追って見てみよう。


 朝。
 「うい〜〜〜!」
と、思い切り両腕を伸ばして伸びをすると、
右手は、小指とコブシの骨が、
左手は親指と手首の筋が、
それぞれ、ピキーンと鳴り、違う種類の激痛が走る。

 「あいいいいいいいいたっ!」

 朝イチで絶叫である。

 その声でアカンボが起きてしまい、号泣。
 急いで添い寝しておっぱいをくわえさせようとするが、
洋服をめくるときに左手首をひねって激痛。

 「いいいいいいいいい!」

 それでも何とかこらえて乳を出し、くわえさせる。
 アカンボが目を閉じて再び寝入ったのでひと安心し、
ヤレヤレ、と、枕がわりに右手で自分の頭を支えると、
コブシの中身が小さく(ぴき)という。

 「あ゛〜〜〜っ!」

 耳元で奇声を浴びせられたアカンボは、
再び驚いて起き、号泣を始める。

 仕方なくアカンボを抱いて階下に降り、
子供たちを起こしたり、朝食を作ったりする。
 うちの朝食は、たいてい前の晩に作っておくので、
温めるだけでいいのだが、
しかし、困ったことに、両手とも物が握れないため、
しゃもじも茶碗も持てず、ご飯をよそえない。
 子供たちに頼んで、いろいろやらせるが、
洗濯は、やはり私じゃないとわからない段取りがあるので、
痛くても自分でやることにした。

 まず、家族7人分の汚れ物の入った大きなカゴを、
両手の親指と人差し指でつまみ、
プルプル震えながら持ち上げ、
洗濯機の中に突っ込む。

 凄い指力が要求される。

 洗濯機や給水ポンプのコンセントを入れるとき、
蛇口を奥から手前にひねって給水するとき、
湯船にポンプの先を持って行くとき、
そのたびに、筋や骨に嫌な力が働き、
ピキーン、となる。

 「あうち!」
 「あたたたた!」
 「い〜〜〜!」

 狭い洗面所に終始叫びが充満し、
一向に作業が進まない。
 それでも、子供に支度をさせながら洗濯を終えると、
今度は、風呂掃除だ。
 濡れたスポンジを握るので、
包帯の右手は、使えない。
 やむなく左手のサポーターを外し、
ふにゃふにゃの手首で風呂の内側をこするが、
これがまた、非常に手首に無理のかかる角度の掃除である。

 「んが〜〜〜!」

 我慢我慢で風呂掃除を終え、
ぺのぺのな左手とふなふなな右手で、
一生懸命に洗濯機からカゴの中に、
大量の濡れた重い衣類を掻き出す。

 その重いカゴを二階に運ぶにも、
両手の指先だけで持ち上げるのは至難の業だ。
 階段では、一段づつカゴを置き置き昇り、
ベランダに出るにも、立て付けの悪い雨戸を開けるときに
みし〜〜〜っ、と激しく手首をひねってしまう。

 片方の指先で洗濯バサミを開き、
もう一方の手で衣類を洗濯バサミの開いた口に持っていく。
 普段は、考えずにやっている、そんな単純な動きが、
・・・・・・できない。

 まず、洗濯バサミが開けない。
 指に過剰な力が入ると、どちらの手も激痛が走る。
 また、腕を上げると、筋がつって筋やら骨やらが引きつる。

 干せない。

 ひーひーひーひー言っていたら、
夫が見るに見かねて、毎朝やってくれるようになった。

 ところが、家事育児以外にも、
手は、生きていく上で、イヤがオウにも酷使されるのだった。

 朝起きてすぐ、血液のどろどろを解消しようと、
3リットルの大きいヤカンから、麦茶を湯飲みに注ごうとして「ピキ」。
 コーヒーを飲んで便意をもよおし、
気持ちよく排便したのはいいが、
両手ともに真っ白な包帯とサポーター。
 洋式便所に腰掛けたまま、
しばし両手を並べて眺めていたが、
意を決して利き手ではない左手で清拭。

 普段ひねっていない方向に体をひねって拭くため、
体がうまく回らない。
 拭く以前に、「目的地」になかなか届かない。

 それでも、「ていや!」と気合で体をひねり、
勘の鈍い「非・利き手」で見えない箇所を狙い、拭く。
 
 拭けているのか?
 いないのか?

 よくわからないが、
とにかく、手にウンチを付けないことに集中する。

 一応拭けたが、トイレを出た後、
洗面所で手をよく洗う。
 石鹸を右手の親指人差し指中指の3本でつかみ、
不器用に泡立て、左手とこすり合わせる。
 その姿は、どう見ても、寿司を握っているようである。

 アカンボが家にいると、
オムツを換えたり、離乳食を上げたりするため、
一日に何度も何度も手を洗うのだが、
そのたび私は、寿司職人になる。

 そうそう、そのオムツ換えだが、
これまた両手にエライ負担がかかる。
 アカンボも10ヶ月にもなれば、
オムツ換えのときおとなしく寝ていてくれるわけなどなく、
くるんくるん回りまくる。
 オケツにビジグソをべったりつけたまま、
右に左に、ぐるんぐるん回る。

 こっちは、本来、物を握れない状態ではあるが、
マットや服にウンチを付けられまいと、
必死で押さえつけて応戦するものだから、
右手も左手も、いてえのいたくねえのって、
もんのすごく、いてえんだよう!!

 で、何とか無事オムツを換え終わると、
肩で息をして洗面所に進み、
心ならずも、やっぱり、小粋に寿司を握るわけだ。

 テーブルの上が汚れても、台布きんが絞れないし、
掃除をしようにも、掃除機もほうきも握れない。
 頑張って握ったところで、力が入らない。

 な〜〜〜んにもできやしない。

 夕飯は、最初の日は、
実家の親がカレーを作ってくれたが、
そう毎日甘えてもいられないので、
子供に手伝ってもらいながら、簡単なおかずを作った。

 米を研ぐのができないため、
仕方なく泡だて器を使い、
片手で包丁を握れないため、両手で握り、
「ケーキ入刀」のようなポーズで、とつとつと野菜を切る。

 研ぎ終わった8合の濡れた米が入った重い内釜を、
炊飯器に入れるのにも、相当の痛みが伴う。
 切り終わった野菜を、鍋やフライパンに移す作業も、
手首に無理なひねりを要する。

 調理に使った道具を、ササッと洗うにも、
急いでやると、筋を違える。

 怪我をして初めてわかる、
料理のときの手の所作の複雑さ。

 世の中には、主婦の仕事を 
「飯炊き」だの「三食昼寝付き」だのと、
小ばかにする人が大勢いるが、
こんな簡単そうな作業でも、
心と頭と体がちゃんと全部バランスよく働かないと、
まったくできないわけだ。

 心が疲れすぎたら、何もやる気が起きないし、
頭がこんがらがってしまうと、仕事がちっともうまく回らないし、
体の部品が全部うまく絡み合わないと、やっぱり家事は、できないのだ。

 そんなことを考えていると、いよいよ夜になり、
アカンボを風呂に入れる時間になる。
 今までは、私が一番風呂にアカンボと入っていたが、
右手を濡らせないのでさすがにこればかりは無理だ。
 長男や次男がアカンボを湯船のふちに立たせて
頭や体を上手に洗ってくれるようになった。
 アカンボもアカンボで、
お湯を頭からザザーッと掛けても、
泣かなくなった。

 「ちゃ〜〜〜!」
と気合を入れ、下を向き、
シャンプー液を逃し、
顔をガーゼでぬぐってもらうと、
「ぷ〜っ!」
と爽やかに口の周りの湯を吹く。

 実に男前なヤツ。
 ちっこい山本譲二。
 (女児なのに)

 さて、私自身が風呂に入るときは、
服を全部脱いだ後、左手のサポーターを外し、
右手に包帯の上からビニールを巻いて輪ゴムで留め、
左手一本でお湯をかぶったり、シャンプーを泡立てたり、
あかすりで体をこすったりするのだが、
いかんせん、体の左半分がちゃんと洗えない。
 左手が、左手周辺に届かないのだ。

 最初の日は、夫に洗ってもらったが、
夫が帰る深夜まで、風呂に入らず待っていると、
早く入りたくてイライラするし、湯も冷めるしで、
もう、待っていられなくなってしまった。

 「依存!」みたいになるのが、めんどくさかった。
 人にどっぷり頼るのは、性に合わない。
 多少うまくできなくても、
できるだけ自分のことは自分でやりたい。

 さて、書き忘れていたが、
私は、歯磨きが好きで、
何か口に入れたら、すぐに歯磨きをしたいタイプだ。
 で、朝、昼、昼間、夕方、夕飯後、寝る前、と、
一日何度も歯を磨くのに、
歯ブラシを握れないのには、本当に困った。
 子供用に買っておいた電動歯ブラシを出してきて、
スイッチを入れては見たが、激しく揺れすぎて、
右手の3本指では持っていられない。
 かといって、筋を違えた左手でも握れない。
 だから、結果的に、電動歯ブラシを
往年のアグネス・チャンみたいに両手で持って、
実に可愛らしく磨くことになった。

 鏡に映る歯を磨く自分の姿を見て、
思わず、裏声で
「おっかのうんえっ、ひんなげし〜のっ、はんなで〜♪」
と歌ってしまい、
思いっきり泡をあごからシャツからダランダランに垂らしてしまう。

 布きんも絞れないっていうのに、もう!
 仕事増やすな、私!

 そんなこんなで、3週間が過ぎた。
 あさってあたり病院に行って、
右手の、この金属と包帯を取る予定だ。
 しかし、今まで固定してあったものを取るのは、実に怖い。
 きっと、私の右手の小指は、
ふにゃふにゃになってしまっているのだろう。
 コブシは、敏感になっているのだろう。

 いやだなあ〜。 


 ところで、この骨折も、
悪いことばかりじゃなかった。
 私に素敵な時間をくれた。

 風呂上がりに、包帯を外し、
消毒用のアルコールを湿らせた綿棒で、
指の隙間隙間をこしこしこすり、
凄まじく煮しめたような匂いと、溜まりに溜まった垢を、
キュッキュキュッキュと拭いていく。

 その姿は、きっと、
昭和時代の渋いカメラマンが、
黒いトックリセーターを着て、
ジャズを聴きながら
自慢のカメラを手入れしている姿のようではないか?

 手入れの手を休めて、
サイドテーブルの上のオンザロックをくいっと飲んだりして。

 いかすわ〜。
 ジャズだわ〜。

             

                    (了)

(しその草いきれ)2006.10.3.あかじそ作