「アキラくんのピース」



 小学3年生の時、隣のクラスにアキラくんという少年がいた。幼稚園の同級生だ。
 アキラくんは、ひとことで言って、「明るい少年」だった。
 普段から、なんとなくにこにこしていて、悲しいことがあると素直に泣き、
嬉しいことがあると、素直に喜んだ。
 私は、そんなアキラくんが、好きとか何とかではなく、単純にまぶしかった。

 私は、物心ついた頃から、どうも不器用だった。
 何をやるにも、まるでできないか、ものすごくやりすぎてしまうか、
どちらかしかできない子供だった。
 「中くらい」とか、「普通に」とか、その加減がよくわからないのだ。
 しかし、「中くらい」や「普通に」ができないと、どうもみんな私をよく思わないらしい、
という事を、小3になってから気がついた。


ある日、父の転勤が決まって、引越しをすることになり、
クラスで私のお別れ会をしよう、ということになった。
 担任の高橋先生が、
「誰か司会をしてくれないか」
と言うと、クラスは、しん、と静まり返った。
 私は、普段、ひょうきん者で、割と人気者のつもりでいたので、
その、いつまでも、しん、となっているのには、正直驚き、
その驚きがショックへと変わる前に、急いで自分で手を上げてしまった。

「じゃ、私がやります」

 教室に苦笑が広がった。
高橋先生も苦笑いで、
「おいおい、赤木のお別れ会だぞ。誰か司会をやってや……」
「いえ、私やります!」
 私は、先生のことばをさえぎって、言った。
もう一回、しん、となるのは嫌だった。

 みんなパラパラと拍手をした。
そして、私のお別れ会の司会は、私に決定した。


 学校から帰宅し、ランドセルを玄関に放り出すと、私は、いつもの空き地へと走った。
 今日こそ、一番乗りになってやろう。
いつもいつも、あと一歩のところで、誰かに負けていたのだ。

「はあ、はあ、はあ……」

 空き地へと全速力で走っているとき、私には、その速くて激しい息の音しか聞こえなかった。
 私の中で、その「はあ、はあ、はあ」という音が、
だんだんと大きくなっていき、耳の奥で大きく響き渡った。

「私のお別れ会なのにね!」

 ちっとも悲しくなかった。
何だか、可笑しかった。

 今日は、なんと空き地に一番乗りだった。
 少しして、ふすま屋のサトケンが全速力で駆けて来たが、
遠くから私の姿を見つけると、「チッ」と言って、走るのをやめ、たらたら歩いて、こちらへとやって来た。
 
「なんだよ、リカが一番かよ! 女子に負けちったよ!」

 サトケンは、ぷくぷくした丸顔で、口は悪いが優しい少年だった。
 私は、サトケンが、何となく好きだった。
 でも、今日のサトケンは、何だか様子が違った。
イライラしていた。

「どうしたの、サトケン」
と、私が聞くと、
「ババアにぶたれた」
と言う。
 宿題をやってから出かけろ、と言われたのに、「後で」と言って出かけようとしたら、
いきなり母親に頬を平手で打たれたという。

「何で今日に限って怒られたんだろ」
 私が言うと、
「知らねえ!」
と、サトケンは言って、足もとの草を千切って、向かい風に投げた。
 細かい草が、紙ふぶきのように、サトケンの顔に強く降った。
「ぺっぺっぺっ」
と、サトケンは、口に入った草を指でほじくり出しながら、舌打ちした。
 私は、笑った。
 私だって、しょっちゅう、親にぶたれる。
その時は、物凄く悔しくて悲しくて、泣きたくなるのに、
人がしかられて腐っている姿は、可笑しいもんだと思った。

 それから、いつまで経っても、いつものメンバーはやって来なかった。
万年半ズボンの江田くんも、黒人ハーフの海老原くんも、誰も来なかった。
 
「つまんねえなあ!」

 しばらくは、二人でシロツメクサを長く長く編んで遊んでいたが、
その花の綱が2メートルくらいになったところで、サトケンは癇癪を起こした。
 突然大きな声で
「あーあ!」
と言った。

「腹減ったな」
 サトケンは、急にどんどん歩き出した。
「どこ行くの!」
 私が小走りで追いかけていくと、サトケンは、急にニカッ、と笑い、
私の顔を覗き込んで、
「焼き鳥食いたくねえ?」
と、言った。
「まさか、すずらん通りの屋台の焼き鳥屋?」
 私が聞くと、
「あったり前だ! ひっひっひー!」
と言って、猛然と駆け出した。
 足の遅い私は、完全にサトケンに遅れをとりながらも、大きな声で叫んだ。
「屋台の焼き鳥は、子供だけじゃ、買っちゃダメだって、学校で言われたじゃん!」
 遥か前方で、サトケンは、くるっと振り返っておどけて小躍りし、また走っていった。
「待てー!」
 私も面白くなってきて、必死にサトケンの後を追った。

 焼き鳥屋のおやじは、怖いヤツだった。
しかめっ面で、私とサトケンを睨みつけていた。
 私達は、夕方の買い物客が激しく行き交う商店街で、少し離れたところから、
焼き鳥を焼くおやじの手元を長い間見ていたのだ。
 おやじは、客が来ると、少しだけしかめっ面を緩め、
ひきつった顔で、客に必死に受け答えしていた。
「あれで商売のつもりかよ」
 サトケンは毒づいた。
 ひとしきり客が来て、また誰もいなくなってしまうと、
おやじは、また、こちらをちらちら見て、睨みつけてきた。

「やっぱり、やめようよ」
 私が言うと、サトケンは、突然、私の腕をつかみ、
「いいから、ここで待ってなって」
と言って、つかつかつか、と、おやじの前に進み出た。

 おやじは、ゆっくり顔を上げて、目だけでサトケンを見下ろした。
「もも1本」
 ぼそっとサトケンが言うと、おやじは、馬鹿でかい声で、
「あん?」
と言い、目をむいた。
「60円、ちゃんと持ってるよ」
 サトケンは、ズボンのポケットから10円玉をいくつか出して、おやじに見せていた。
 おやじは、乱暴にその金をむしり取ると、雑な動きで、
すでに半分焼いてある焼き鳥の束の中から1本取り出し、ささっと焼いた。
 サトケンは、焼きあがった焼き鳥を一本受け取って、誇らしげに私の方に向かって駆けてきた。

「どうだ? やったぜ!」
 サトケンは、私に焼き鳥を渡した。
「いけないんだー」
 私が、にやにやして流し目で言うと、サトケンは、
「いいんだよ!」

と言って、とっとと商店街を、駅の方に向かって歩き出した。

「ちょっと! これ! 食べないの?」
と、私が慌てて追いかけると、 
「やる!」
と言って、どんどん速く走り出し、とうとう人ごみの中に消えていってしまった。


 私は、焼き鳥を路地のすみっこで急いで食べた。
味なんて、わからなかった。
 べたべたの串を持って家に帰ると、引越しの荷造りをしながら、母親が、
「佐藤さんちのふすま屋さん、つぶれちゃうらしいよ」
と、言った。
「え?」
と、振り向きながら私は、さっきサトケンが、母親にぶたれた話を思い出した。
 そういうことだったのか。合点がいった。
 大人は、イライラしたり、物凄く困ってしまうと、子供に八つ当たりするのだ。
 いつも優しいサトケンのお母さんだって、店がつぶれちゃうんじゃ、それじゃ、ぶつよね……。
 私は、納得していた。
 そして、さっき、人ごみに消えていったサトケンが、
今ごろどうしているのか、気になってしかたなかった。


 お別れ会当日、私は、班ごとの発表やゲームを紹介し、最後に、
「それでは、遠くに引っ越して行ってしまう私に花束をどうぞ」
と、おどけて言って、代表の関根さんから、紙で出来た手作りの花束を受け取った。
 みんな笑っていた。
このまま私は、明るい、ひょうきんな女の子として、ここを去れるだろう。
 私は、ほっとした。


 高橋先生が、職員会議に行ってしまい、しばらく自習になった。
 すると、目がすわったサトケンとヨシムラが、私の机のところへゆっくりとやってきた。

「お前サア、自分が生意気なの、知ってる?」
 サトケンが歯を食いしばりながら、心底憎憎しげに言った。
「へ?」
 私がびっくりしていると、ガタイのいいヨシムラが、
後ろから私の両肩をぐっと押して、私は、思い切り前に倒れた。
 ガラガラガラ、と、机やイスが倒れ、私は、それらの脚の、
鉄のパイプの林の中に、顔を突っ込んだ。
 鼻を強く打って、生暖かい鼻血がツツッ、と垂れた。

「わ! 汚ねえ! こいつ、赤い鼻水垂らしてるー!」
 ヨシムラが大笑いした。
「生意気だから、バチが当たったんだよ!」
 サトケンが言った。
 サトケンは、机によじ登って、倒れている私の背中の上に思い切り飛び降りた。
 一瞬、息ができなくなった。
何が起こっているのか、全然わからなかった。
「泣け! 泣けばやめてやる!」
 サトケンとヨシムラは、執拗に私の上に何度も飛び降りたり、髪をつかんで引きずりまわしたりした。
 かすんだ視界の中に、クラスメイトたちが、凍りついて私を見ているのが映った。
 時々、女子の「やめなさいよぉ!」
という声が、かすかに聞こえた。

 私は、泣かなかった。
痛いけど、それより、悲しかった。
 悲しすぎて、泣けなかった。
 そういえば、父親に昨日殴られたときも、泣かなかった。
「泣きもしねえよ! 可愛いくもねえ!」
と、その時も言われた。

「泣けよぉ! 泣け泣け!」
 ヨシムラが、さすがに少し、手をゆるめた。
 しかし、サトケンは、泣かない私に、余計逆上し、
「泣くまでやめないかんな!」
と、また歯をくいしばって言った。
 「サトケンは、優しい子なんだ。これは、何かの間違いなんだ」

私は、何度も自分に言い聞かせた。
口の中は、甘い血の味がしていた。


 先生が、誰かに呼ばれて走ってきた。
私は、先生に背中を抱きかかえられ、教室を出て、昇降口の傘立てのところへ連れて行かれた。
 高橋先生は、腫れ物に触るように、ひきつった顔で私を見て、
「赤木、今日は、もう帰れ。ランドセルは、後で関根に持って行かせるから」
と、私の背を押して、外へと促した。
 そして、
「お母さんには、何も言うなよ。心配するからな」
と言った。

 びっくりした。

 私は、大好きな高橋先生が、誰か違う人になってしまった気がした。
 そういえば、この昇降口も、傘立ても、こんなふうだったっけ?
 通学路も、この店も、この家も、こんなふうだった?
 見るもの全てが、いつもと同じようにあるというのに、いつもと全然違うように見える。
 まるで色がない。

すべてが白黒テレビに映る、遠い画面の中の出来事のようだった。

 私は、どこか、違う町に迷い込んでしまったように、帰り道、
きょろきょろとあたりを見回しながら、歩いた。
 家に帰り、母親に

「鼻血?」
と聞かれ、
「ちょっとね」

と答えて、テレビをつけた。
 いつもは学校に行っていて見られない、昼のドラマをやっていた。
「今日は早いね」
と、ダンボールの山の向こうから、母の声が聞こえた。


 引越し当日、父の運転する引越しトラックに乗って、家を出発した。
 高い座席から、見慣れているはずの町を見ると、もう、そこは、すでによその町のようだった。

 と、道の向こうから、アキラくんが歩いてきた。
幼稚園のときから、いつも時々話す、明るいアキラくん。

「お
い」
と、私が、車の窓から身を乗り出して呼ぶと、
すぐにアキラくんはこちらに気づき、いつも通り、にっこり笑った。
 向こうから歩道を歩いてくるアキラくんと、このトラックが、どんどん近づいていった。
すれ違いざま、アキラくんが、ピッ、と指でピースサインを出した。
 振り返ると、アキラくんは、こちらを向いて立っている。
 ピースサインを出した右手を、まっすぐ上に上げ、顔は、輝くくらい、にこにこの笑顔だった。

 やがて、アキラくんの姿は、どんどん小さくなり、車が角を曲がると、すぐに見えなくなった。

 ここのところ、まったく違う町のように見えていたこの町が、
パッ、と色を取り戻し、いつもの、私の育った町に戻っていた。


 あのアキラくんのピースが、私の白黒の画面を、カラーテレビに治してくれたのだ。

 大人たちに愛されて育ち、悲しいときには泣き、嬉しいときには素直に喜ぶ、明るいアキラくん。

そんなアキラくんのピースが、私に何かを分けてくれたのだろう。

 そして、その屈託のない笑顔が、私に教えてくれたのだろう。

それでも大人を信じよう、と。

                                     おわり 

2001.11. 作:あかじそ