第542回 12月せいび歩こう会

御霊神社

奈良時代光仁天皇の后(きさき)で皇后であった井上内親王(いがみないしんのう)とその子他戸親王(おさべしんのう)が祀られています。井上内親王は、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。(ちなみに、井上内親王は、聖武天皇の御子であったため、気位が高く、周りから疎まれて、皇后の位から廃されたとも云われています。)一時現在の中辻町に幽閉され、後に奈良の五条に幽閉されました。その幽閉先で、二人同時に薨去(こうきょ)されたと云われています。

平安時代、怨霊を鎮めるために、京都の上・下に 御霊 神社が祀られ、全国各地にも神社ができました、その一社がこの御霊神社です。

法 徳 寺
(毘沙門堂)

本尊の阿弥陀如来立像(市指定文化財)は、元、信貴山寺の本尊であったのが兵乱で火災にあい、その時、盗人に持ちだされ、重いので、ならまちの野原に捨てられていたものを、地元の方に助けられ、安置され、後に法徳寺へ移されたそうです。近くの鳴川町にある徳融寺もこの像に関係があるように聞きおよびます。祭祀については町自治会が関係して執り行われているようです。

入江泰吉記念
奈良市写真美術館

西日本初の写真専門の美術館。入江泰吉の生前に全作品と愛憎品を寄贈されていた奈良市が建設して、開館しました。

鏡 神 社

新薬師寺の鎮守社。御祭神は藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)です。広嗣は藤原氏の衰退にいら立ち上奏文を朝廷に送りました。聖武天皇はこれに対して、広嗣の召喚の詔勅を出されたが、広嗣は勅に従わず挙兵するも、あっけなく敗れ最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、同国唐津にて処刑されました(藤原広嗣の乱)。いつの頃からか奈良に祀られ、松浦明神と呼ばれ、上清水町に鎮座され、奈良の清水寺・福智院の鎮守明神と云われました。其処は天満町の東側であったので、東天満とも呼ばれたとあります。

ちなみに、東側に姫塚がありますが、誰の塚かは定かでないようです。

※社の前には「おがたまの樹」があります。巫女の持つ鈴の形にそっくりな実がつくのでその名が付いたそうです。東大寺八幡社境内にもこの樹があります。

新薬師寺

聖武天皇ご病気の時、光明皇后が病気平癒を願い、建てられました。往時は、七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院でしたが、次第に衰退、落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼したり、台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊したりして、現在の建物は鎌倉時代のものと伝わっています。また、本尊の薬師如来は創建当時に造られたのではなく、平安時代初期の作と云われています。

香薬師堂、夜泣き地蔵を安置。昔、春日大社で毎夜子どもの泣き声がし、神官が声のする方へ行くと、本殿のお厨子の中からの声、開けると地蔵が入っていて、「薬師寺に帰りたい。」と言うので、直ぐに薬師寺に移されました。それからは、毎年、春日大社から、お米をお供えされ、それは、明治まで続いたということです。

寺には、近隣の地蔵堂から移された通称・景清地蔵と呼ばれる木造地蔵菩薩立像が安置されています。昭和 58 年にこの像の解体修理を行ったところ、内部から裸形像の体部が発見され、修理後は裸形像に新しく造った頭部をつないで別の像とし「おたま地蔵」として香薬師堂に安置しています。

奈良には三裸仏があります。(小川町の善興寺・高御門町の西光院・と此処香薬師堂)

紀伊神社

春日の奧の宮と呼ばれ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子である三神【五十猛命(いそたけるのみこと・)大屋津姫命(おおやつひめのみこと)・抓津姫命(つまつひめのみこと)】を祀っています。樹木の種子をもたらせた神々です。

当社の手前には、二つに割れた大石があります。これは「伊勢遥拝石」で、この間に向けばちょうど伊勢の神宮の方角にあたることから、遥かにお伊勢様をお参りする場所であります。