第537回 7月せいび歩こう会

 

滝 雄 神 社

大国主命を祀る。深草の藤森社の境外末社。初めは、東山の聾谷(つんぼだに)に創建されたと伝えられ、応仁の乱後転々と移転、創紀は諸説あり。
現在は大丸稲荷と呼ばれるこの社は、大丸百貨店の始祖・下村氏が社殿造営以後、代々修復を行ってきた。
今の社殿は 175 年前の創建、桃山風で豪華です。

泉 涌 寺
(せんにゅうじ)

真言宗 泉涌寺 派の総本山で古くから皇室の香華院。弘法大師が一宇の草庵を結び法輪寺と名付けられたのが寺の始まり。
又、左大臣藤原緒嗣が建立にかかわったとも云われる。平安末期、堂宇は荒廃したが鎌倉期に観音堂等が再建される。

泉涌寺大門

大門は東へゆるく勾配し伽藍を見下ろす景観、宮中内裏の門が下賜(かし)された。庭園は清楚閑雅、池泉鑑賞式である。

月 輪 陵
(つきのわのみささぎ)

泉涌寺本坊の背後にある御陵。四条天皇はじめ後水尾天皇以降仁光天皇に至る天皇・皇妃・親王が奉葬されている。

25 陵・ 5 灰塚・ 9 墓もあります

泉 涌 水

泉涌寺の寺名の由来となった泉涌水(崖下から湧水したと伝えられる)。大門を下り参道右側に ある切妻式の建物が浴室。
泉涌寺の寺名の由来となった泉涌水(崖下から湧水したと伝えられる)。大門を下り参道右側に ある切妻式の建物が浴室。

七 福 神

泉涌寺には七つの塔頭があり、各院に七福神が祀られている。

 即成院(福禄寿)那須与一を祀る。与一は源氏の将で弓の名人、源平合戦の屋島の戦いで武名を挙げた。
 与一は常にこの寺を信心し勝利を願った。

 戒光寺(弁財天)戒律の道場。本尊は阿弥陀如来で、丈六の立像現存中、その大きさは他に劣らない。

 観音寺(恵比須神)今熊野観音で知られる。本尊は十一面観音。
 弘法大師が東山山中で、老翁から授かった十一面観音安置し法輪寺としたのが泉涌寺の起こりと伝えられる。

 来迎院(布袋尊)わが国最古の荒神(かまどの神様)坐像を祀る。
 境内には弘法大師が、独鈷(とっこ)を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」がわきでている。

 雲竜院(大黒天)「走り大国」。泉涌寺の別院。後光厳天皇が創建される。
 後円融、後小松、称光各天皇が崇敬され崩御後ご大葬された。

 悲田院(毘沙門天 )月輪山支峰の悲田院山にある。後花園天皇の勅願寺。

 法音院(寿老人)

観 音 堂

大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に、中国・唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈ってその容貌を写し造られた聖観音座像が安置されている。寄木造、透かし彫りの宝冠、手に極楽の花を持つ。 湛海 和尚が十六羅漢と共に、宋の国から頂いた像と伝えられる。

鳥 辺 野 陵
(とりべののみささぎ)

一条天皇皇后定子陵、他一陵、六火葬塚等、広い陵域に十数余の古塚が樹木の中に散在し荒れ放題である。
塚が誰のものであるか判らない。陵西側に剣社があり瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・白山姫を祀る。

新熊神野社

後白河上皇が、平清盛に命じて熊野より神霊を移し、社殿を造営した。荘厳を極めたが、応仁の乱後衰微した。
今なお安産の神として崇敬されている。

夢の浮橋碑

「この娑婆世界、無常の夢の如く、波に漂う浮橋の如く」と儚い(はかない)ものの例えから橋の名がついた。
この橋は今はもう無い。暗渠(あんきょ)となった。