第541回 11月せいび歩こう会

弓 削 神 社
(ゆげ)

東西併せて( JR 志紀駅と長瀬川を挟んで)二つの弓削神社があります。西社には延命水の湧く井戸があったが、今は枯渇しています。
当地域は八尾の豪族(物部氏)の一族である弓削氏の、高僧・道鏡の出身地です。
(ちなみに、出身地ですが、弓削神社は彼の没後の創建であり、直接関わりはありません。)
道鏡は宮中に入り、時の帝第48代女帝称徳天皇の病気平癒に献身して信頼を得、急速に出世を果たしました。大宰府の神官が「宇佐神宮の神託(神のお告げ)で、道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があった。」と伝えてきました。 しかし、和気清麻呂が勅使として宇佐神宮に参向しこの神託が虚偽であることを知り、天皇に上申したため、称徳天皇は道鏡を天皇にすることはありませんでした。
弓削氏は弓矢等の武器製造に関与した、古代氏族であったと云われています。

安 中 新 田

江戸時代中期に大和川付け替え工事の大事業により、旧川床を利用して多くの新田が開発されました。そのうちのひとつが安中新田です。柏原市の安福寺が開発の中心であったために「安中新田」という名がついたと言われています。その安中新田を管理する支配人となった上田家の屋敷に開発事務所が置かれ、その会所(上田家住居)が資料と共に八尾市指定文化財として一般に公開されています。

渋 川 神 社
(しぶかわ)

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと・天照大神のお子神)、饒速日尊(にぎはやひのみこと)を祀ります。
境内の楠木(府の天然記念物)は樹齢一千年と伝えられています。

大聖勝軍寺
(たいせいしょうぐんじ)

聖徳太子が物部守屋との戦に戦勝祈願し、勝利後、大阪四天王寺建立に続いて建てられたのが起源と伝わる古刹。聖徳太子が建立した、三太子の一つで、太子町の叡福寺(えいふくじ)は「上の太子」、羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)は「中の太子」に対して、ここ八尾の大聖勝軍寺は「下の太子」と呼ばれています。この寺は現在、高野山、真言宗の末寺です。
〈椋の大樹〉戦当時 16 歳の聖徳太子は自ら兵を率いて参戦します。しかし強大な兵力を誇る守屋の前に三度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に
陥りました。まさにそのとき椋(むく)の大木が真っ二つに割れ、その幹の空洞に身を潜めた太子は九死に一生を得ます。
〈守屋首洗池〉大聖勝軍寺の門前に在る池。聖徳太子は迹見赤檮(とみのいちい)に鏑矢(かぶらや)を以って、守屋を射させたところ、その矢は見事に守屋に命中し、秦河勝(はたのかわかつ)がその首をとって、この池で洗い太子に示したことから、俗に守屋首洗い池と呼ばれています。

物部守屋の墓

太子堂(大聖勝軍寺)山門の東側の交差点の西側にあります。
物部氏は饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫で大和時代の大豪族の一つ。物部守屋は蘇我馬子や聖徳太子の仏教政策と対立し、廃仏として蘇我氏から奪った阿弥陀如来像を「難波の堀江」に叩き込みました。それが争いの原因と云われています。
そして、この「難波の堀江」が阿弥陀池と呼ばれるようになり、大阪の街の町名として残っています。

鏑 矢 塚
(かぶらやづか)

守屋を射た矢を埋めた所と伝わっています。鏑矢とは、鹿の角や木で、かぶら ( 蕪 ) の形に似させて,中を空洞にし, 3 〜 8 個の穴をあけて作ったものを、矢じりの先に取り付けた矢で、その矢を射ると穴が風を切って鳴り,その響きによって相手を射すくめるもの。

弓 代 塚
 (ゆみしろづか)

守屋が迹見赤檮(とみのいちい)の弓に討たれた所。
守屋が高い木の上に登り、物見をしていた時、鏑矢が飛んできたと、言い伝えられています。

稲 城 址

聖徳太子が物部守屋の居館に攻め寄せた時、守屋は兵を集めて、此の地に稲城を構えてたてこもり、抗戦した所と云われています。
稲城は稲で囲った城。あるいは、稲を積み上げて敵の石や矢を防ぐ防壁用のものです。
場所は光蓮寺の表門、向って左側軒下に位置が示されています。