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6月の素敵な映画!! 「メイド・イン・ホンコン」 監督・脚本:フルーツ・チャン この映画を作ったきっかけが、1977年の香港の中国返還にあるのは間違いない。 同世代の人間の多くと同じように、私にとってもこの出来事は一種の締切りであり、ある歴史的な時代の終焉を意味している。 映画の中でのヒロインのペンがかかる死の病、主人公チャウが抱く未来への絶望、彼の自滅は、ここから生まれている。 ペンとチャウの家族(さらには伝統的なモラル)の崩壊は、父親と本土から来た情婦の「和合」によってもたらされるが、これも中国の経済変革の副産物だ。 これは暗い見方だが、私や私の世代にとっては心からの実感である。 このやるせなさこそ、私にこの作品を作らせたものだ。 フルーツ・チャン監督の第二作目にあたるこの作品は、製作当初、わずか5名のスタッフで開始された。
スタッフは無給、キャストはまさに素人、撮影期間2ヶ月以上を費やすも、すぐには公開されなかった。 その後、ロカルノ国際映画祭、ナント三大陸映画祭などに出品し、高い評価を得る。 これにより、ようやく上映にこぎつけられた血と汗と涙のアート作品なのである。 その興行成績も圧倒的なマーケットを占め、香港返還後のまさにリアルな「今」を映し出した傑作である。 では、そのストーリーを簡単に紹介してみよう。 ********** Story **********
1977年、香港。
チャウは、下町の老朽化した低所得者用公団に住む少年。 父は家を出てしまい、コンビニに勤める母と二人暮らしをしている。 中学を卒業してからというもの、借金の取り立ての手伝いばかりで、仲間 の組織には属さない一匹狼に誇りを持っている。弟分のロンは知恵遅れの少年で、金持ちの高校生たちにいつもいじめられていた。 ロンとともにいつものように取りたて先に出向いたチャウは16歳の少女ペンと出会う。 ペンの父は借金を残したまま行方不明。 彼女も母と二人暮らしをしていた。 ペンのすらりと伸びた脚を見たロンは、つい鼻血を出してしまう。 だが、この日はペンの母の尋常でないその強気な態度に、チャウとロンの取りたては失敗に終わる。 ある朝、ロンは屋上から飛び降り自殺した少女を目撃してしまう。血に染まった真っ赤な遺書を拾ってから、不吉なことが立て続けに起こった。その後、またしても高校生たちのいじめに遭う。ぼこぼこに殴られて半殺しの状態となったロン。そして、チャウの父は大陸の女と同棲していることがわかり、二人には子供もすでに存在していた。けがをしたロンを病院に迎えに行ったチャウは、看護婦からロンが持っていたニ通の遺書を手渡された。ふと、帰り際に病院の廊下で、ペンと彼女の母が座っていた。チャウは、ペンをからかうように声をかけるも、母の無視するような態度に追い払われてしまう。 自殺した少女が書き残した遺書を持ち帰ったチャウは、毎日その遺書を書いたサンの夢を見る。サンの訴え・・そして夢の後の夢精・・チャウはそれにずっと悩まされることになった。 街に出たチャウは、仲間のクンに呼び止められて彼の車に乗り込む。クンは、福祉課の民生委員のリーさんと婚約をしたことを告げる。クンは、今は定職につき、しかもリーさんの勧めで臓器提供のドナーになったという。 ある日、ペンがチャウを訪ねてきた。 「友達になってほしい」という。 心を開きはじめたペンと、チャウとロンの3人は、早速、サンの書いたニ通の遺書をそのあて先まで届けることにした。 1通目は、サンが恋していた女子高の体育教師。3人がその教師を探し出し、本人の手に渡すと、彼はその手紙を3人が帰るや否や破り捨てた。 もう1通は、サンの両親宛てだった。しかし、なぜか家を見つけて、その家の中を覗いているときに、家族に見つかり、3人は走り去ってしまう。 全力で疾走した3人だったが、ペンが突然胸を押さえて苦しみだす。 チャウは初めてペンの身体の異常に気づく。 ペンは重症の腎臓病で、移植をしなければ予後不良となり余命も長くない。 それを知ったチャウは、クンのくれた臓器提供のパンフレットにサインをする。 自分の腎臓をペンにあげたいと望んだのだ。 ・・チャウは、こうしてひそかにペンを愛し始めていた・・。 その後も、チャウはペンの家を訪れた。 そんな矢先、極悪非道の取立て屋・デブのチャンが現れた。 ![]() 借金の肩代わりに、娘をよこせと強引な手段にでるのだが、チャウはチャンに対抗するように追い払ってしまう。そして、ペンの家の借金を自分が返してやりたいと考えた。 だが、それは母の現金をこっそりくすねてしまうとい悪いやり方だった。 お金を息子に奪われた母は、ついにチャウを捨て、家を出てしまう。 今では、ロンも住みついてしまった家だった。だが、チャウの心には母に捨てられた未成年の孤独と寂寞がとめどなく押し寄せていた。 すべては自分たちを捨てた父のせいだと勝手に思い込んだチャウは、台所の包丁を持つと、父と女が同棲する家へ向かった。 その途中、公衆トイレに立ち寄る最中、いつもロンをいじめていた高校生の一人が、妹をレイプした自分の父親の腕を、大きな包丁で切り落とす現場を目撃してしまう。 その途端、チャウの父に対する憎悪は、急速に衰えていくのだった・・。 母を捜し求めるチャウ。 家に帰ると、窓の外には隣接する高級マンションの灯りがきらきらとした宝石のように輝いていた。一人、泣きつづけるチャウ・・。 そして、突然、ペンが入院した。 見舞いに行ったチャウとロンは、ペンを病院から連れ出し、高台の墓地へ向かった。 3人はサンの墓探しを始めた。彼女の名を大きく叫びながら・・。 広い広い墓地の中を、鳥のように飛び回る3人。 そこはまさに天国だった。 ペンがチャウにささやく。 「私が死ぬとき 抱いてね」 二人ははじめて淡いキスをした。 ペンの父の借金とペンの手術費用のために、チャウは組織のボス・ウィンにかつて誘われた殺しの仕事を引き受ける。 ペンのために・・借金のために・・。 そして、ウィンから生まれて始めて銃を受け取る。 恐怖を堪えるように酒を飲み、ヘッドホンいっぱいにかけた音楽を聴きながら一人 酔いしれ踊り狂うチャウ。いよいよ明日は、その殺しの仕事が待っているのだ。ところが、その殺しはなんなく未遂に終わる。 初めて体験する殺しの瞬間・・その恐怖・・。 その晩、チャウはまたしてもサンの夢を見る。 ![]() そして、今度はチャウの命までが狙われた。 スケボーに乗った少年は、デブのチャンの手下だった。 チャウは、少年に何度となくドライバーで刺された。 まもなく、病院に運ばれたチャウは、生死の境をさまよった。 それを聞きつけたペンの母は、万一チャウが亡くなったときに、彼の腎臓を娘のために提供してくれるようにと医師に懇願する。 が、チャウの命は、奇跡的に取りとめたのだった。 数ヶ月の時が過ぎ、ようやく病院を退院できたチャウは、ペンの死を知る。 さらに、ロンはチャウが入院中にボスのウィンの仕事を引き受けて、麻薬運びの途中、残忍にも殺されていた。 チャウはチャンと、そしてボスのウィンに復讐するため立ち上がる。再び、銃を手にして・・。ウィンを殺し、チャンを殺し・・そして、墓へと向かった。ペンの眠る墓へ・・。 数日後、サンの遺書が両親のもとにようやく届いた。差出人はチャウだった。 遺書の中には、ペンそしてチャウの最後の言葉書き添えられたまま・・。 チャウは、ペンの墓で、永遠に深い眠りについた・・・。 最近、軒並み香港映画の人気が沸騰しつづけ、「欲望の翼」「恋する惑星」など香港の退廃した青春物語と不良少年たちのモチーフが浮き彫りにされている。 だがこの映画は、なんともいえない怒張感とやるせないほどの社会のひずみ、そしてそのひずみの底辺で生きる人々の心の凝縮さが、パーンとはじけてしまったような少年の生き様に現われている。 見終わったあとも、ずっと海猫の頭と心には、不快指数のようなせつなさがこみ上げてならなかった。それだけに脳裏に刻まれるのは、心優しいペンの淡い恋心と、それとはまるで裏腹な暴力と金にまみれた香港という歴史的にもまだまだ始まったばかりの国を背景にした一社会のいびつな光景である。 知恵遅れという役どころで登場した身体ばかり大きなロンが、白い制服を着た金持ちの高校生たちにトイレの便器に頭をつけられ恥ずかしい姿でもて遊ばれるシーン。チャウが敵にまわした組織の手下・スケボーの少年に、見るも無残なぼこぼこに刺されて倒れるシーン。そのどこのシーンにも、心臓が止まりそうな嗚咽感と冷や汗が流れた。 この少年たちの生き様には、平和もなければ愉快な光景さえない。ただあるのは切なさとやるせなさの絶望感の波動である。見ていると、心のどこかに大きな動揺を感じる。 しかし、ペンとチャウのいかにも若い世代の青く熟しきらない少年少女たちのそんな生き様が、いっそう純粋な視点を投下させてくれる。 ここで少しだけ救われながらも、ラストシーンのチャウの大人びた表情で大人たちに復讐するシーンは、かなりストーリーの展開が興味深かった。そして、最後にはチャンの死に顔を道具にあそび戯れるさらに年若い小学生たち。むごさと現実の皮肉さがたっぷり込められている。 社会という器にはびこる善と悪。勧善懲悪なストーリーでもなく、ましてや退廃した美学とも異質な香港映画。ジャッキー・チェンが成功したアクション映画とは似ても似つかないリアルタイムな香港を、今、フルーツ・チャンは必死になって撮影している。そう思うと、次回作がほのかに待ち遠しい。 こういう映画は、例え上映されなくても、海猫の心のどこかにピンとくるスパイスを感じる。あらすじだけでも異臭を放つような気もするし、そういえばそういうことってあったようなそんな世界を感じさせる。 たぶん、それは海猫とはまったく違う俗世間だからかもしれない。そして、それほどまでに違う世界でありながらも、社会とか家族に対する同じ情感が流れているからかもしれない。 いつになく意表を突かれて、最初から最後まで唖然としていた映画だった。 |
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