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9月の素敵な映画! 「バッファロー'66」 監督・脚本・主演・音楽:ヴィンセント・ギャロ 1962年 4月 11日、ニューヨーク州 バッファローに生まれる。
1978年。16歳で故郷を離れ、ギターを携え、ニューヨークへ。 愛車「CHEVY」での寝泊まりや、安宿での極貧生活を送りながらも、ニューヨークの路上で偶然、ジャン・ミッシェル・バスキアと出会う。 その頃、ニューヨークは、ダウンタウン・ニューウエーブの真っ盛りだった。 ギャロは8ミリ映画への出演を手始めに、バスキアと始めたバンド「Gray」の活動を Mudd Club などで演奏しはじめる。 その後、自分のバンドを結成し、ローマからヨーロッパを旅しながら、画家のヴィクトル・キャバロと知り合う。 そして、ヨーロッパでの活動の基盤を作りながらも、帰国後はリトル・イタリーのアパートで、今も暮らしている。 では、そのストーリーを簡単に紹介してみよう。 ********** Story ********** 1966年、ビリー・ブラウン。
ニューヨーク州バッファローに生まれる。 その年は、地元フットボールチーム「バッファロー」が優勝した最後の年だった。 バッファロー郊外の刑務所で、5年の刑期を終えてようやく自由の身になったビリー・ブラウン。
(ラストシーンへとつづく)塀の外は、すでに雪の残る寒い冬だった。 刑務所前のバス停でベンチに座ったまま彼は、突然、体を丸めながらぐっと何かをこらえている。ふと立ち上がると、そのままつかつかとまた刑務所の門を叩いて、こう言った。 「トイレを貸してくれ・・」 ところが、看守の言葉は冷たく寒空に響いた。 「一度刑務所からでたら、中には戻れない」 ビリーはバスがくるのをそのまま待った。 BLUE BIRD・・幸せの青い鳥。 それはしばらくしてやってきたバスの名。 幼い頃からビリーの人生は、そんな青い鳥にも見捨てられたねじのはずれた運命の連続だった。 バスに乗り、ようやく町にでたが、トイレはすべて掃除中。 レストランはタイムアウトで使うこともままならなく、また急ぎ足でトイレを探しはじめる。 ちょうどビルの一角にダンススクールがあり、ようやくそこのトイレに入ることができた。 ところが、肝心のものが結局でないのだ。我慢しすぎてしまったのだ・・。 怒り狂ったように、隣で用を足す男にやつあたりしながらも、廊下にでると、家族に電話をする。 なんとビリーは、この5年間、ずっと家族には刑務所に入っていたことを内緒にしていたのだ。しかも、ビリーは電話にでた母親にこんなことを告げる。 「結婚して、政府の仕事で遠くへ行ってた。今、高級ホテルにいる。しばらくしたら、そちらに行く・・」 ずっとムショ暮らしをしていたことをだまし続けられたのは、ビリーの友人で頭の弱いグーンの手を借りていたからだった。 しかし、電話にでた母親は、相変わらずアメフトの試合中継を見ているらしく、5年ぶりに電話してきたビリーの話にもそっちのけだったのである。 電話口でまたしても怒り狂うビリーは、ついついまた嘘をつく。 「これから妻を連れて帰るからな・・」 そんなことを言ってしまったのもつかの間、ムショをでできたばかりのビリーに、妻どころか彼女さえいない。 そんな彼の目の前に、ダンススクールでレッスンしてた若い女・レイラの姿が目に止まる。 ぽっちゃりとしたふくよかな体にピチピチのミニ・スカート。しかも、足下は銀の靴。 そこにはミラクルではじけた若さがあふれていた。 ビリーは何を思ったか、無理矢理レイラの口を手で押さえると彼女を拉致し、早速、彼女の車に乗り込んで、両親に会うために自分の妻役を演じろという無茶な脅しをしかける。 「俺の顔をつぶしたら、二度と口をきかないぞ。うまく演じたら、親友になってやる」 妙に子供じみた脅しにもならないような文句を口早に喋ると、レイラをまんまと妻役に仕立て上げてしまった。 ビリーは、レイラに運転を命令しながらも両親の家へと向かった。 ブラウン家の前。 ビリーは、これまでの思い出に打ちひしがれていた。 急に気分が悪くなってしまったビリーを、レイラはさも本物の妻のように見守っては、密かに同情心を起こしはじめていた。 そして、いよいよビリーがドアを開け、両親と再会。 妻役・レイラの愛嬌のよさとともに、5年ぶりに両親と食卓で向かい合うこととなった。 ビリーの母親は、フットボール狂。 地元チーム「バッファロー」の貴重な優勝の瞬間を、ビリーの出産のために見過ごしてしまったのだと悔しげに語る。 そして、息子にはこれっぽっちも興味のない父親。 そんな両親の愛に飢えながら育ったビリーも、刑務所をでて、すぐにここに訪れたのは、こんな家族にそれでも愛してほしかったからだった。 ところが、相変わらずバラバラ家族とともに過ごす奇妙な夕飯。 必死に妻役を演じていたレイラが、とっさにビリーに質問した。 「アメフトは好き?」 ビリーの脳裏に苦い思い出がよぎった。 それは、払えもしない1万ドルを「バッファロー」の優勝に賭けてしまった時のこと。 負けてしまったそのバクチの肩代わりに、ノミ屋のボスに、 「友人の罪を被ってムショに入れ」 と命令されたのだ。 そんな5年前の刑務所に入ったいきさつを思い出しながら、ブラウン家を後にした2人は、ボーリング場にやってきた。 ここは、ビリーが唯一輝いていた場所だった。 マネージャーのソニーは、ビリーのマイボールを保管し続けてくれ、暖かくかつ優しく出迎えてくれた。 お役ご免となったレイラも、いつしかビリーに対して別れがたい感情を抱いていた。 2人は、時間つぶしにデニーズに入った。 そこでまたしても運悪くビリーの初恋の相手・ウェンディとフィアンセが、偶然、隣に座った。驚くよりも、身を隠すビリー。 そんなビリーに向かって、ウェンディは自分への片思いを知っていたビリーをあざけり笑った。 傷つくビリー。そして、それを慰めるように話しかけるレイラ。 「あなたは優しすぎる人なのよ」 2人はその場を立ち去ると、冷え切った体を温めようと一軒のモーテルに入った。 だが、レイラが体に触れることさえ拒み続けるビリー。 愛されたことのないビリーは、愛しかたさえも知らなかった。 それでも、徐々にビリーの心は開かれて、狭いベッドの上で右と左に向いた2人の体は、しだいしだいに近づいていく・・。互いの唇と唇だけがふれあうことのできた幸福の瞬間・・。 ところが、ビリーにはやるべきことがあった。 これまでの5年というムショ暮らしの原因となった、バッファローの選手・スコットの試合が、八百長だったからだと、ビリーは完全に思いこんでいた。 そして、スコットが経営するストリップ小屋に向かうビリー。 スコットに最後の復讐をし、自分の死をも覚悟していたのであった・・。 なんといってもこの映画の魅力は、ギャロの自分自身のヒストリーを匂わせるようなプラスアルファのストーリーであることが、リアルに匂い立つかたちとして、我々観客にセンチメンタルな男・ギャロをオーバーラップさせる。よって、海猫のようなCMや広告誌を見て好きになっていったギャロ・ファンとしては、たまらなく彼にふれられるこの作品が恋しかったわけである。
さらに、アート・フィルムとしては、今世紀最後の傑出した作品であるのだが、とりわけ話題性だけでも評判になってしまったギャロという未知の男は、世紀末の流星のごとく商業ビジネスのテーマにもってこいだったのだろう。 では、本題の映画の話題へとうつろう。 まず冒頭の刑務所のシーンは、その寂寞感と敗北感が、トイレを我慢する運のない男の姿とだぶりはじめ、じわりじわりとこちらも寒々しい居心地の悪さだけが迫ってくる。そんな背景とともに、一人の背高のっぽのひげ面男は、目だけが強烈に鋭いのだ。 一瞬、ビリーがそのまんまギャロとしてとらえられてしまうのかもしれない。 ところがそのすらりとした足下には、なんとも凝った赤いブーツが光っているのだ。そのファッションの一つ一つも、すべてギャロのこだわりのハンドメイドでこしらえたセンスとデザインがほどこされていた。彼の視点は、独裁的な監督として、わがままにも映画の随所にふんだんに投入されていた。 そして、やりきれない姿をした男がいまだトイレにいきたいのにどこのトイレにも入れないというシーンでは、 「ああ・・・こういうついてない男って、とことんついてないのよね・・」 と思いながらも、そこがどうも海猫の母性本能をすりすりとくすぐりはじめる。 ギャロの演じるビリーなのか、ビリー演じるギャロなのか、まったくここでは皆無なのだ。 とにかくこのギャロという独特な雰囲気の男の持つ、どことなくニヒルな凍り付いた表情が、その寒々しさを暖めてあげたくなってしまうような姿にも映し出される。 しかし、「バッファロー」というアメリカの小さな町に生まれたしがない男のヒストリーは、すでにギャロすなわちビリーという役柄を越えていた。 それはボーリング場で、まさに5年ぶりにボーリングをするシーン。ここでは、ずっと刑務所をでてからこの時を待ちかねていたようなビリーの情熱が一気に噴き出すようなシーンである。 履いていた赤いブーツのジッパーが、じ、じ、じじじじっーーー・・、とゆっくりと下ろされる。そしてマイシューズに履き替えられる。マイボールを手に持つ。ビリーの正面の顔のアップ。そして後ろ姿のシャープな出で立ち。ピンに向かってゆっくりゆっくりボールがストライクゾーンを走る。その真剣な鋭いビリーのまなざしが走る。 はっきりいってたまらなくぞくぞくした。それなのになんだかとってもコミカルなのだ。思わず、ビリーのあの「イヤアーーー」というガッツポーズには笑ってしまった・・。 そんなワンシーンワンシーンが丁寧なのに、奇妙な連続で成り立っているのだ。 そしてビリーの異常に神経質そうな眼孔とその態度がきまじめな男の野暮な茶目っ気となって、見ているものを笑わせる。 常にじりじりと睨みつけては放さないようなギャロの瞳。 そんなギャロの瞳にうつった社会や生き様こそが、彼のアートの原点なのだろう。 それとこの映画の音楽は、どれもこれも70年代のプログレでしめられ、イエスといいクリムゾンといい、それをまとめてしまうギャロの音楽性といい、すべてが踏襲されてしまったようなものである。ギャロは、自分のバンドの音楽も当然挿入しているわけなのだが、それよりももっとセンチメンタルな忘れ去られた音楽のなかに、どっぷりと風呂にでもつかっているように映画のあちこちにちりばめている。 これはオリジナル・サウンド・トラックを聞くと、なぜこんなにもそのまんま乗せていて、なんだか物足りない気もするのだが、これはこの物足りなさがギャロのプロデュースしたかたちなのだろう。淡泊なのに、それでいてひとつひとつはバラバラな要素でまとまりよりも非連続性をねらっているようなそんなサントラだった。 単館ロードショー公開されて一ヶ月。 売り上げとともに観客動員数が徐々にのびていったその理由にも、当然この映画にある「刑務所あがりの負け犬の孤独と、愛への渇望と、その未来」それ自体が、今世紀末に生きる我々にも似た欠落した感覚と、その自己愛すべての渇望とまなざしにとってかわるのだろう。 見た人の誰しもが「・・ビリーよ。それなら俺もおんなじだぜ・・」と思わずにはいられないようなアート・フィルムなのである。 ギャロの次回作は確かに話題になっている。 アキ・カウリスマキ監督の「GO! GO! L.A.」なのだが、海猫は彼のすべての芸術的な活動やその一貫性のない非連続的なテーマに注目していきたい。 それは彼の音楽であれ、彼の俳優活動であれ、映画監督作品であれ、コマーシャル・シーンであれ、どれをとっても、ギャロという男を切り離しては考えられないからだ。 だからこそ、彼のすることがいちいち重箱の隅をつつくように気になってしかたないのである。 |
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