「います普通に」
 幽霊を信じる人も、信じない人も、ちょっと聞いてください。
 私は、子供の頃から、物凄く怖がりで、
できれば幽霊なんて存在しないで欲しいクチなんですが、
でも、しょっちゅう、会うんです。
 知り合いと道端で出くわすように、ごく普通に、出くわすんです。

 いるんです。
そこいらじゅうに。
 ごろごろごろごろ、ふつ〜〜〜〜〜〜に、いるんです。

 でも、そのほとんどは、怖くない人たちなんですよね。
 近所の庭先で、エプロンつけたおばあちゃんが、
その家の子供が遊んでいるのを、にこにこしながら見ている。
 で、次の瞬間、見えなくなってる。
 たぶん、その子のおばあちゃんとか、ひいおばあちゃんなんでしょう。

 そしてまた、あるときは、すし屋の角で、
赤いチェックのシャツを着た、若いお兄ちゃんが立っている。
 ジーパンはいて、髪が寝癖で突っ立った、人のよさそうなお兄さん。
「あの人、いっつも同じ洋服で、同じところ寝癖作ってあそこに立ってるなあ」
と、思っていたら、次の瞬間、消えてる。

 まばたきした後、もう、見えなくなってる。
それなら、最初から何にも見えなければいいのに、
ちょっと見えちゃう。

 時々、物凄く怖いムードの人もいるけど、
それは、きっと怒ってたり、悲しんだりしているみたいです。
 去年、私が葬儀屋で仕事をした時、そういう人にたくさん会ってしまい、
帰りの車のブレーキが急にきかなくなったりしたので、
命の危険を感じて、その仕事をやめました。
 その後、ずっと、右斜め後ろが「怖い感じ」なので、
柄にもなく、朝晩、線香をあげてみることにしました。
 仏壇とか、神棚とか、そういうものとは無縁の生活でしたから、
とりあえず、百円均一で買ってきた線香とロウソクを使って、
「死んだじいちゃん、怖いから、何とかして、お願い」
と、手を合わせてみました。
 すぐには、何も変わらなかったけれど、
だんだんと怖くなくなってきたので、おそらく、これでオッケイなんでしょう。

 そういえば、家の玄関の松の木の、枝を大きく切った時、
私は、突如、脳に菌が入り込み、髄膜炎で死にそうになったし、
根っこを切った時は、交通事故で足の靭帯を伸ばしてしまいました。
 庭の模様替えで、根っこを切ってしまうと、
そのたびに、足にギブスをはめる羽目になるのです。

 木にも、なんだか、何かがあるみたいです。

「そんな非・科学的な〜!」
とも思うけれど、科学で「霊みたいなものはない」と、
証明されたわけでもないんですよね。
 だから、幽霊やら木の精霊やら、その他いろんなものが、
その辺を、うろうろうろうろしていても、別におかしくはないのかもしれません。

 ここのところ、線香を上げながら、ロウソクの揺れる火を見つつ、
【自問自答】するのが習慣になっているのですが、
その【自答】というのが、非常に不思議で、
普通に「これ、どうしようかなあ」と考えて出てくる、
いつもの【自分らしい答え】とは、まるで違うんです。

 まるで、ひとの意見なんですよね。
絶対に自分から出たとは思えないような答えを出してくるんです。
 まるで、死んだじいちゃんとか、ひいばあちゃんとか、
あるいは、夫の方の親戚とか、そういう人たちが、
「いまどきの若いお母さんに、何かを教えてくれている」
っていう感じの答えなんです。

 (どうも子供とうまくいかない、どうしましょう?)

と、ロウソクの火に問うと、

―――いいがになっとるし、ダイジョブや―――

と、頭の中に金沢弁で答えが返ってくるし、
(夫は金沢出身、私は、関東出身です)

 (ダンナがムカツクのよぅ!)

と、ロウソク見ながら念じると、

―――リカ。お前、もうちょっとダンナ様大切にしないとよぅ―――

と、身内の年寄りらしき声が頭に響く。

 それは、もう毎度の事で、朝晩、そんなだと、
何だか全然不思議な感じはなくなってきて、
むしろ、「今日のカウンセリング・タイム〜♪」
といったノリになってきている。

 先日、私が、いつものように線香をあげていると、
すぐ後ろに立っていた2歳の四男が、あらぬ方向を見て、
突然、誰かにあやされたときの、「ウキャキャキャキャ〜」という笑い声を何度も上げたんです。
 そこには誰もいないのだけれど、四男は、確実に、ある一点を見て、笑っているわけです。
 そのうち、また突然、顔を両手で覆って、いつもの人見知りの仕草をするんですよね。
で、私の頭の中に、死んだじいちゃんの、低い声で、
「あーっはっはっは、ごめんごめん」
という笑い声が聞こえて・・・・・・。

 でも、全然、怖くもないし、不自然な感じじゃなかったんです。
 私も、
「ああ、おじいちゃんと遊んだの〜?」
とほほえましい気分になったし、
「生きてる者と生きてない者とは、単に、
『見えるか見えないか』『体があるかないか』だけの違いでしょう?」
と、思うようになってしまいました。

 もし、自分が死んで、親しい者が生きていたとしたら、
生きてる子や孫が困っているときに、助けてあげたいと思うだろうし、
生きている時と同じように、世間話したり、一緒にお茶を飲んだりできたら楽しいなあ、
と思うんです。
 自分が一生懸命に守っているのに、生きてるモンが、てんで気づいてくれなくて、
自分のことなどすっかり忘れてしまっていたら、
やっぱりかなり淋しいなあ、と思うのです。
 でも、朝晩(時々さぼるけれど)挨拶くらいしてくれたら、
ちょっと嬉しいじゃないですか。 

 最近、ロウソクに火をつけ、線香を上げるときに、
水をいつも通りコップに入れて供えていると、
―――リカよぅ、たまにはお茶でも淹れとくれよ―――
という声が聞こえ、
「え〜、朝は忙しいから、夜でいい〜?」
と言うと、
―――しょうがないねえ、まあ、いいよ―――
なんて会話が成立しているなんてことは、まだ誰にも言っていません。
 頭がおかしいと思われそうだから・・・・・・。


                                      (おわり)

しその草いきれ : 2002.04.06 作 あかじそ