「オテントサマ」 |
「夢」とか、「希望」とかいう言葉は、 もう使い古されすぎて、私には、ひとつも実感ができない。 「夢」とか、「希望」とか言えば、若いもんが喜んで飛びつくと思ってるヤツがいる、と思うと、 ケッ、と思う。 ♪夢を捨てないで〜 とか、 ♪希望に向かって〜 とかいう「人生の応援歌」みたいなものを聞くと、ムシズが走った。 しかし、それは、「夢」とか「希望」という言葉が、安売りされているから好きじゃないだけであって、 その中身については、「ケッ」が先に立って、考えるのをしないでいた。 しかし、最近、どうも、暗闇を当てもなく歩いているような、 生きる目的も目標も失ってしまった毎日を送っていたことに気づいた。 長距離をランニングするのに、ゴールの向こう側を想像できないのは、つらい。 こんなにしんどい思いで走っているけど、私は、どこに向かっているんだ? なんで走っているんだ? 根本的な、素朴な疑問が頭をもたげて、 走る意欲、生きる意欲までもが、減退してきていた。 走るなら、生きるなら、 途中の景色も楽しみたいし、走り終わったら、 どんな楽しいことが待っているのか、それを知っておきたい。 そうしたら、走ること、生きること、そのものを、楽しめるはずだ。 真っ暗闇をただただ走るより、 打ち寄せる波を横目に見たり、潮風を嗅いだり、 古ぼけた宿場町の街並みを眺めたり、 木に咲く花を見上げたり、ゴールの方向を記す看板が欲しい。 そんな景色や、看板が、いわゆる「夢」だの「希望」だのだと思うのだ。 暗闇のはるか向こうに、街灯が、ポツン、ポツン、と続いていて、 それが、自分の行くべき道を指し示してくれたのなら、 走ること、生きることに専念できる。 道が照らされていれば、心のフタが取れる。 「わからない」「見えない」という本能的な不安がなくなる。 何でもいいのだ。 「アイドルになりたい」とか「宝くじに当たりたい」とか、 そんなものでなくてもいい。 「今晩、あの店に飲みに行こう」と思えば、仕事も、ちったあ、楽になる。 「今日は、【いい服】着よう」と思えば、何だかシャキ、っとしそうなもんだ。 好きなこと、やりたいこと、それは一体、なんだろう? 自分は、一体、どうしたいの? と、自分に聞いてみよう。 そして、そいつを、やればいいんだ。 王様も、乞食も、昔のヒトも、未来のヒトも、 生まれて、そして、死ぬのだ。 幸せなヒトは、自分の心に街灯を照らせるヒトだ。 爆弾の雨の下で暮らしていても、 「いつか平和な世界で暮らすんだ」という希望を持っていれば、 心にオテントサンが当たってる。生きていける。 何不自由なく暮らせる環境にいても、 希望を持てなければ、心は、闇だ。生きていけない。 立ち止まってしまうのは、進むべき道が見えないから。 道が見えないのは、灯りを点けないから。 灯りを点けないのは、灯りを点けようとしないから。 「灯りを点けよう」と思いつきさえすれば、 おのずと灯りは点いていく。 死の淵にいるものさえも、灯りを点けることはできるはずだ。 今、自分は、現役で生きているというのに、暗い顔をして、 「つまんねえ、つまんねえ」と言っているのは、 自分がさぼっているからに他ならないのだ。 ねっころがって、ぬくぬくと毛布をかぶって、 「何か楽しいことを持って来い」 と、言ってるヤツが、何で楽しくなるだろう。 ちょっと視線を上げて、 「あれ、やってみようかな?」 と、腰を上げた者だけに、楽しいことが起こるのだ。 オテントサンが、輝くのだ。 誰かのせいに、しちゃいけない。 何かのせいに、しちゃいけない。 自分の人生は、自分でオトシマエをつけるのだ。 オテントサンは、見てるのだ。 (おわり) |
2002.03.06 作 あかじそ |