前に発表した作品に少し手直しをして改訂版を書きました。
 初稿を一度読んだ方も、はじめて読む方も、どうぞご感想をお寄せ下さい。
改訂版「アキラくんのピース」

 小学三年生の時、隣のクラスにアキラくんという少年がいた。
 幼稚園の同級生で、学校に入ってからも、家が近いせいか、時々話をした。
 アキラくんは、ひとことで言って、「明るい少年」だった。
 普段は、なんとなくにこにこしているけれど、
悲しい時は、素直に泣き、嬉しい時は、素直に喜ぶ、素朴で気さくな子供だった。
 本当に普通の子で、どこも目立つようなところがないのに、
なぜかいつも気になるのは、他の子たちと、なにか違うムードを、
いつも漂わせているからだろう。
一緒に居るとこちらまで素直になってしまう、不思議な力を持っていた。
 クラスの男子たちは、名前を呼ぶと、
「なんだよ!」
と、乱暴に答えるが、アキラくんは、
「こんにちは」
と、まっすぐにこちらの顔を見て笑いかけてくれる。
 親でさえも、呼ぶと
「何だい!」
と、きつく返されていた私は、この世で誰よりも自然にアキラくんに話し掛けることができた。

 私は、素直なアキラくんが、まぶしかった。
 物心ついた頃から、私は、どうも不器用で、何をやるにも、まるでできないか、
ものすごくやりすぎてしまうか、どちらかしかできない子供だった。
 「中くらい」とか、「普通に」とか、その加減がよくわからなかった。
 その点、アキラくんは、いつも自然体で、
無意識のうちに「中くらい」ができてしまう子供だったのだ。

「アキラって、どういう漢字なの?」 
と、私が聞くと、
「日曜日の『ニチ』の下に、『光』って書くんだよ」
と、自分の手のひらの上に指で書いて見せてくれた。 
「漢字一個で『アキラ』って読むの?」
と、私がびっくりしていると、
「便利でしょ」
と、笑った。

「私の名前は、カタカナのリカなんだよ」
と、私が自分の手のひらに指で書こうとすると、アキラくんは、また笑って、
「カタカナは、知ってるよ」
と言い、
「社会でも、国語でもないよね」
と、また、にっこり笑った。

 このごろ、男子に話し掛けると、すぐに誰かしらに冷やかされてしまうので、
ろくに男子とは話が出来なかったが、アキラくんは違う。
 会えば、いつもいっぱい話していっぱい笑い、笑顔のまま家に帰るのだ。

 その日、アキラくんはご機嫌で、道ですれ違いざま、私を見つけると、
「ねえねえねえねえ」
と、駆け寄ってきて、私の耳元で、
「ぼくの秘密基地見に来ない?」
と、言った。
「行く!」
 私は、買物カゴを腕に掛けて、オツカイの途中だったのにもかかわらず即答した。
「私の秘密基地も見てみる?」
「うん!」
 アキラくんも、私の顔を覗き込んで目を輝かせた。

 私の秘密基地は、団地の奥の、生垣の中にあった。
 ヒイラギがたくさん茂った囲いを、イテッ、イテッ、と言いながらくぐって行くと、
中に、ふかふかの落ち葉をたくさん敷き詰めた、畳一枚分ほどのスペースがある。
 隅っこの方の落ち葉を掻き分けると、クッキーの空き缶が埋めてあって、
中には、千代紙や、パチンコの玉、レンズ工場で拾った、曇った失敗レンズや、
いびつな失敗ビー球などが隠してあった。
「すっげえ!」
 アキラくんは、基地の真ん中でぐるぐると周りを見回し、
「これなら、絶対に誰にも見つからないよ」
と、感心してくれた。
 私は、もう、得意になって、
「この基地はね、関根さんと、真由美ちゃんと、うちの弟しか知らないんだよ」
と、自慢した。
「秘密基地なのに、全然秘密じゃないんだなあ!」
と、アキラくんは、笑った。
「今度は、ぼくの基地を見せてあげる」
 私たちは、急いで宝物の入った空き缶を落ち葉に埋め、
また、イテッ、イテッ、と言いながら生垣をくぐり、
誰もいないのを確認してから、さっ、と素早く団地内の道に飛び出した。
 そこへ、急に、管理人のおじいさんが通った。
「やばい!」
 アキラくんと私は、慌てて口笛を吹いたり、あらぬ方向を指差して、
「あっ、あれはなんだ!」
などと言って、管理人の目をごまかそうとした。
 しかし、はなから管理人は、私たちにはまるで無関心で、
竹箒を引きずって団地の集会場の方に行ってしまった。
「危なかったあ!」
 と、私が言うと、
「ぜんぜん!」
と、アキラくんは笑った。

 アキラくんにとって私は、何だかずれていて、とぼけた女子に思えたのだろう。
 私のやることなすことすべて可笑しいらしく、いつも、くすくすと楽しそうに笑っていた。
 私が大真面目に語り、アキラくんが笑いながら答える、
というのを続けて歩いているうちに、学校の裏手の雑木林に着いた。
「うそ! ここ?」
 私がびっくりしていると、アキラくんは、少し悪そうな顔をして、
「昼間でも暗いから、見つかりにくいんだよね」
と言うと、急にすたすたと速く歩き出した。
 追いかけていくと、隅っこのどんぐりの木の下に、小さな冷蔵庫が置いてあった。
「本当は、もっとあっちの方にあったんだけど、ひとりで運んだんだ」
「友達に手伝ってもらわないで?」
 私が言うと、アキラくんは、
「友達に言ったら、秘密基地じゃなくなっちゃうじゃん」
と言って、冷蔵庫の脇から、奥の方へ潜っていった。
 中の方は、とても凝った作りになっていた。
 木の枝から、青いシートがロープで吊るしてあって、テントのようになっていた。
 家からこっそり持ってきたと思われる、オシャレなマットも敷いてあり、
花瓶に道端の花が生けてあった。
「お金持ちって感じ」
 私が、花瓶の前に正座して、しみじみ言うと、アキラくんは、ゲラゲラ笑った。

「リカちゃん、誰にも言うなよ!」
 アキラくんは、急に小さい声で言った。
「でも、私に言っちゃったから、秘密じゃなくなっちゃうよ」
と、私が言うと、
「リカちゃんは、大丈夫だから」 
と、じっと目を見てアキラくんは言う。
 なぜか私は、どぎまぎして、そこいらじゅうに落ちているどんぐりを、
やたらとかき集めて、花瓶の周りに並べた。
「誰にも言わないよ。私の基地も、誰にも言わないでね」
 早口で言うと、
「自分でみんなに言ってるくせになあ!」
 アキラくんは、また笑った。

 私が何か言うたびに、アキラくんは、笑ってくれる。
 父も母も、私のことばに、こんなに笑ってくれないというのに、
アキラくんは、いつもいつも、笑ってくれる。

 帰り道、
「おうちの敷物持って行っちゃって、叱られないの?」
と、聞いてみると、アキラくんは、
「わけを話せば大丈夫」
と、言った。 
「うちだったら、ぶっ飛ばされちゃうよ」
と、言うと、
「まさかあ!」
と、アキラくんは笑うが、私は本気だった。
 
 アキラくんは、親にぶたれたことがないらしい。
 何でも話し合いで解決していて、叩いたり、ぶったりなんて、
全然されたことがない、と言う。
 毎日、何かしら父に殴られている私には、どうしても信じられなかったが、
でも、このアキラくんのキラキラした笑顔は、
お父さんやお母さんに大切にされている証拠なのだろう、と思った。

 私は、空っぽの買物カゴを提げて、薄暗くなってから家に帰った。
「遅いじゃないの」
と、母は言ったが、もうすでに夕飯はできていた。
 私は、預かったお金を台所のテーブルの上に置いて、
黙ってわかめの味噌汁を一口すすった。 
 
「リカちゃんは、大丈夫だから」

 あの、アキラくんのことばは、なんだったんだろう。
 私は、いつでも、何だか、ばたばたばたばたしていて、
大人たちに叱られてばかりだけど、本当に私は大丈夫なのだろうか?
 何をやってもうまくできない私だというのに。
 でも、アキラくんは、私を「大丈夫だ」と言った。

「リカちゃんは、大丈夫だから」
「リカちゃんは、大丈夫だから」

 それからしばらくの間、私は、頭の中でそのことばを、何度も何度も、繰り返していた。 


 ある日、父の転勤が決まって、うちは、引越しをすることになった。
 クラスで私のお別れ会をしよう、ということになり、担任の高橋先生が、
「誰か、お別れ会の司会をしてくれないか」
と言うと、クラスは、しん、と静まり返ってしまった。
 私は、普段、ひょうきん者で、割と人気者のつもりでいたので、
その、いつまでも、しん、となっているのには、正直驚き、
その驚きがショックへと変わる前に、急いで自分で手を上げてしまった。
「じゃ、私がやります」
 教室に苦笑が広がった。
高橋先生も苦笑いで、
「おいおい、お前のお別れ会だぞ。誰かが司会をやってやらないと……」
「いえ、私やります!」
 私は、先生のことばをさえぎって、言った。もう一回、しん、となるのは嫌だった。
「それでいいのか?」
先生が私に聞くと、
「いいでーす!」
と、誰かが大きな声で言った。
 パラパラと拍手が起こり、そして、私のお別れ会の司会は、私に決定した。
 みんな、ニコリともせずに、真顔で私に注目しながら拍手していた。

 学校から帰宅し、ランドセルを玄関に放り投げると、私は、いつもの空き地へと走った。
 今日こそ、一番乗りになってやろう。
いつもいつも、あと一歩のところで誰かに負けていたのだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
 空き地へと全速力で走っているとき、私の息の音は、
だんだんと大きくなっていき、しまいには、自分の息の音しか聞こえなくなっていた。
 耳が詰まったような、変な感じがして、思わず声を出してみた。
「私のお別れ会なのにね!」
 声が二重に響いて聞こえた。
 
ちっとも悲しくなかった。それより、何だか、可笑しかった。

空き地に着くと、誰もいなかった。珍しく一番乗りのようだ。
 少しして、ふすま屋のサトケンが全速力で駆けて来た。
 が、遠くから私の姿を見つけると、急に走るのをやめ、
たらたら歩いて、こちらへとやって来た。
「なんだよ、リカが一番かよ! 女子に負けちったよ!」
 サトケンは、ぷくぷくした丸顔で、口は悪いが優しい少年だった。
私は、サトケンが、何となく好きだった。
 でも、今日のサトケンは、何だか様子が違った。イライラしていた。
「どうしたの、サトケン」
と、私が聞くと、
「ババアにぶたれた」
と言う。
 宿題をやってから出かけろ、と言われたのに、
「後で」と言って出かけようとしたら、いきなり母親に平手で頬を打たれたという。
「何で今日に限って怒られたんだろ」
 私が言うと、
「知らねえ!」
と、サトケンは言って、足もとの草を千切って、向かい風に投げた。
 細かい草が、紙ふぶきのように、サトケンの顔に降り注いだ。
「ぺっぺっぺっ」
 サトケンは、口に入った草を指でほじくり出しながら、舌打ちした。
 私は、笑った。
 私だって、しょっちゅう、親にぶたれる。
 その時は、物凄く悔しくて悲しくて、泣きたくなるのに、
人がしかられて腐っている姿は、なんだか可笑しいもんだ。

 しばらくの間、二人でシロツメクサを長く長く編んで遊んでいたが、
その花の綱が二メートルくらいになったところで、サトケンは癇癪を起こした。
「チッ」
と舌打ちすると、突然大きな声で
「あーあ!」
と言った。
 いつまで経っても、いつものメンバーはやって来なかった。
 万年半ズボンの江田くんも、黒人ハーフの海老原くんも、
一言も口をきかない大津さんも、誰も来なかった。
「つまんねえなあ!」
 サトケンは、空に向かって叫んだ。
 が、急に思いついたように
「腹減ったな」
と、ぽつりと言って、どんどん歩き出した。
「どこ行くの!」
 私が小走りで追いかけていくと、サトケンは、ニカッ、と笑い、
私の顔を覗き込んで、「焼き鳥食いたくねえ?」
と、言った。
「まさか、すずらん通りの屋台の焼き屋?」 私が聞くと、
「あったり前だ! ひっひっひー!」
と言って、サトケンは、猛然と駆け出した。
足の遅い 私は、完全にサトケンに遅れをとりながらも、大きな声で叫んだ。
「屋台の焼き鳥は、子供だけじゃ、買っちゃダメだって、学校で言われたじゃん!」
 遥か前方で、サトケンは、くるっと振り返っておどけて小躍りし、また走っていった。
「待てー!」
 私も何だか面白くなってきて、急いで後を追った。
 
焼き鳥屋のおやじは、怖いヤツだった。 さっきからずっと、しかめっ面で、
私とサトケンを睨みつけていた。
 私たちは、夕方の買い物客が激しく行き交う商店街で、
少し離れたところから、焼き鳥を焼くおやじの手元を長い間見ていたのだ。
 おやじは、客が来ると、少しだけしかめっ面を緩め、
ひきつった顔で、客に必死に受け答えしていた。
「あれで商売のつもりかよ」
 サトケンは毒づいた。
 ひとしきり客が来て、また誰もいなくなってしまうと、
おやじは、また、こちらをちらちら見て、時々長く睨みつけてきた。
「やっぱり、やめようよ」
 私が言うと、サトケンは、突然、私の腕をつかみ、
「いいから、ここで待ってろって」
と言って、つかつかつか、と、おやじの前に進み出た。
 おやじは、ゆっくり顔を上げて、目だけでサトケンを見下ろした。
「もも1本」
 サトケンが言うと、おやじは、馬鹿でかい声で、
「あん?」
と言い、目をむいた。
「六十円、ちゃんと持ってるよ」
 サトケンは、ズボンのポケットから十円玉をいくつか出して、おやじに見せていた。
 おやじは、乱暴にその金をむしり取ると、雑な動きで、
すでに半分焼いてある焼き鳥の束の中から1本取り出し、ささっと焼いた。
 そして、焼きあがった焼き鳥の串を一本、
サトケンの目の前に、フェンシングのように突き出した。
サトケンは、一瞬のけぞったが、めげずにその串の部分を手首を返して受け取り、
おやじに一瞥くれてから、誇らしげに私の方に向かって、胸を張って歩いて来た。
                                   
     
「どうだ? やったぜ!」
 サトケンは、私に焼き鳥を渡した。
「いけないんだー」
 私が、にやにやして流し目で言うと、サトケンは、
「いいんだよ!」
と言って、とっとと商店街を、駅の方に向かって歩き出した。
「ちょっと! これ! 食べないの?」
と、私が慌てて追いかけると、 
「やる!」
と言って、どんどん速く走り出し、とうとう人ごみの中に消えていってしまった。

 私は、焼き鳥を路地のすみっこで急いで食べた。
味なんて、わからなかった。
 べたべたの串を握って家に帰り、こそこそ台所のゴミ箱の底の方に串を捨てていると、
引越しの荷造りをしながら、母が、
「佐藤さんちのふすま屋さん、つぶれちゃうらしいよ」
と、言った。
「え?」
と、振り向きながら私は、さっきサトケンが、母親にぶたれた話を思い出した。
 そういうことだったのか。合点がいった。 
大人は、イライラしたり、物凄く困ってしまうと、子供に八つ当たりするのだ。
 いつも優しいサトケンのお母さんだって、店がつぶれちゃうんじゃ、
それじゃ、ぶつよね……。
 私は、納得していた。
 そして、さっき、人ごみに消えていったサトケンが、
今ごろどうしているのか、気になってしかたなかった。

 お別れ会当日、私は、司会として、班ごとの発表やゲームを紹介し、最後に、
「それでは、遠くに引っ越して行ってしまう私に花束をどうぞ」
と、おどけて言い、代表の関根さんから、紙で出来た手作りの花束を受け取った。
 みんな笑っていた。
このまま私は、明るい、ひょうきんな女の子として、ここを去れるだろう。
 私は、ほっとしていた。

 お別れ会の後、高橋先生は、職員会議に行ってしまい、しばらく自習になった。
 すると、目がすわったサトケンとヨシムラが、私の机のところへゆっくりとやってきた。
「お前サア、自分が生意気なの、知ってる?」
 サトケンが歯を食いしばりながら、心底憎憎しげに言った。
「へ?」
 私がびっくりしていると、突然、ガタイのいいヨシムラが、
後ろから私の両肩を思い切り突いた。
小柄な私は、勢いよく前に飛んだ。
 ガラガラガラ、と、机やイスが倒れ、私は、それらの脚の、鉄のパイプの林の中に、
顔を突っ込んだ。鼻を強く打って、生暖かい鼻血がツツッ、と垂れた。
「わ! 汚ねえ! こいつ、赤い鼻水垂らしてるー!」
 ヨシムラが大笑いした。
「生意気だから、バチが当たったんだよ!」 サトケンが言った。
 サトケンは、後ろの人の机によじ登って、倒れている私の背中の上に思い切り飛び降りた。
 私は、一瞬、息ができなかった。
何が起こっているのか、全然わからなかった。
「泣け! 泣けばやめてやる!」
 サトケンとヨシムラは、執拗に私の上に何度も飛び降りたり、
髪をつかんで引きずりまわしたりした。

 耳が聞こえなくなってきた。目もよく見えない。
かすんだ視界の中に、クラスメイトたちが、凍りついて私を見ているのがぼんやり映った。
時々、女子の
「やめなさいよぉ!」
という声が、かすかに聞こえた。

 私は、泣かなかった。
痛いけど、それより、悲しかった。
 悲しすぎて、泣けなかった。
 そういえば、父に昨日殴られたときも、泣かなかった。
「泣きもしねえよ! 可愛いくもねえ!」
と、その時も言われた。

「泣けよぉ! 泣け泣け!」
 サトケンは、泣かない私に、余計逆上し、
「泣くまでやめないかんな!」
と、また歯をくいしばって言った。
「サトケンは、優しい子なんだ。これは、何かの間違いなんだ」
私は、何度も自分に言い聞かせた。
口の中は、甘い血の味がしていた。

 先生が、誰かに呼ばれて走ってきた。
私は、先生に背中を抱きかかえられ、教室を出て、
昇降口の傘立てのところへ連れて行かれた。
 高橋先生は、腫れ物に触るように、ひきつった顔で私を見た。
「赤木、今日は、もう帰れ。ランドセルは、後で関根に持って行かせるから」
 先生は、私の背を押して、外へと促した。
「お母さんには、何も言うなよ。心配するからな」

 びっくりした。
 私は、大好きな高橋先生が、誰か違う人になってしまった気がした。
 
 高橋先生が飛んできたのを見た時、私は、
先生が助けに来てくれたのだと思ってホッとした。
 でも、先生は、鼻血を垂らし、体じゅう切り傷だらけの私の手当てもせずに
「早く帰れ」と言い、「誰にも言うな」と言った。
 このことを全部、内緒にしようとしているのだ。
  
 急に目の前の傘立てが見知らぬ器物に見えた。

 そういえば、この昇降口も、傘立ても、こんなふうだったっけ?
 通学路も、この店も、この家も、こんなふうだった?
 見るもの全てが、いつもと同じようにあるというのに、いつもと全然違うように見える。
 まるで色がない。霧がかかっているみたいだ。

 私は、どこか違う町に迷い込んでしまったように、
帰り道、きょろきょろとあたりを見回しながら歩いた。

 すべてが、白黒テレビに映る風景のようだった。
いつも賑わっている商店街の客引きの声も、
古いテープレコーダーで再生した音みたいに、ぼんやりとこもっていた。
 何もかもが、遠くで起こっているように感じ、
自分が本当に、ここにいるのかどうかさえ、自信がなかった。
  
 家に着くなり、母に、
「鼻血?」
と聞かれた。
 慌てて鼻を押さえて、
「ちょっとね」
と答え、テレビをつけた。
 いつもは学校に行っていて見られない、昼のドラマをやっていた。
「今日は早いね」
と、ダンボールの山の向こうから、母の声が聞こえた。

 引越し当日、父の運転するトラックに乗って、家を出発した。
 高い座席から、見慣れているはずの町を見ると、
もう、そこは、すでによその町のようだった。

 と、道の向こうから、アキラくんが歩いてくるのを見つけた。

「お―い」
と、私が呼ぶと、すぐにアキラくんはこちらに気づき、いつも通り、にっこり笑った。
 向こうから歩道を歩いてくるアキラくんと、
少しスピードを緩めたこのトラックが、どんどん近づいていく。
すれ違いざま、アキラくんが、ピッ、と指でピースサインを出した。
 私は、車の窓から身を乗り出して振り返ると、
激しく車が行き交う大通りの隅っこに、小さな子供がひとり、こちらを向いて立っている。
 あれが、アキラくんだ。
 アキラくんは、街の風景の中では、本当に小さな小さな子供だった。
 しかし、その小さな足で、しっかりと地面に立ち、
堂々と大人たちの作った街の中で、ピースを出している。
 彼は、ピースサインを出した右手を、まっすぐ上に上げ、
顔は、遠くから見てもわかるくらい、ピカピカの笑顔だった。

 やがて、その姿は、どんどん小さくなり、車が角を曲がると、
すぐに見えなくなってしまった。

「リカちゃんは、大丈夫だから」

 耳の奥で、アキラくんの声が聞こえた。

 その瞬間、まったく知らぬ町のように見えていたこの風景が、
パッ、と色を取り戻し、街の喧騒がいっぺんに耳に飛び込んできた。
 いつもの、私の育った町に戻っていた。

 あのアキラくんのピースが、私の白黒の画面を、カラーテレビに直してくれたのだ。
 大人たちに愛されて育ち、悲しいときには泣き、
嬉しいときには素直に喜ぶ、アキラくん。
 アキラくんは、私に何かを分けてくれたのだ。
 あの屈託のない笑顔が、私に、もう一度信じる力をくれた。

 母が、私の肩に手を乗せている。
 そして、父が、ルームミラーで私の顔をチラリと覗き込む。

 私は、総天然色の明るい街並みを見渡して、思った。


 それでもやっぱり、大人を信じよう、と。
 私は、大丈夫なんだ、と。

                  (了)

(青春ってやつぁ) 2002.07.29 作 あかじそ