あゆさん 20800キリ番特典 テーマ:結婚15周年 |
「うろうろのアリ」 |
私と夫は、明日で結婚15周年を迎えようとしていた。 私は、結婚記念日とか、誕生日とかにまったく興味がなく、 「記念日」と称する日に大騒ぎする友人たちを不思議な気持ちで見ていた。 夫が結婚記念日を忘れたことから、離婚まで発展してしまった友人、 誕生日とクリスマスは彼氏に高価なプレゼントを貰えるのが当たり前だと思っている友人、 ふたりが出会った日だけは絶対に不倫の彼に泊まっていってもらう、という友人もいる。 確かに初心に返って新鮮な関係を思い出すのも必要かもしれないが、 記念日を忘れた相手に罰則を設けるのは本末転倒ではないか、と思う。 しかし、そうは思っていても、結婚して15年、 一切、家族の誕生日やクリスマスをノーリアクションで過ごしている夫に対して、 ちょっと無神経すぎやしないか、とも思っていた。 子供はふたり。 中学生の娘と小学校5年生の息子がいる。 夫とは、よく話もするし、仲はよい方だと思う。 家庭は明るい雰囲気だし、子供たちは、ふたりともいい子だ。 しかし、来月40歳になる私は、笑顔の下に、 どうしようもない不安と不満を押し込めているのを自覚し始めているのだ。 夫の仕事は順調。 子供の成長も問題ない。 パートではそこそこ仕事を認められ、これといった問題がないのに、 心の中で、虚しさというガスが日に日に膨張していくのだ。 子供の巣立ちが近いからか。 最近は、ふと、自分が消えても別にいいや、と思うときさえある。 物心ついた頃から夢中で絵を描き、2浪して美大に入り、 自分は絵を描いて生きていく人間だと信じていたが、 夫と出会い、結婚し、子供を育てているうちに、 いつの間にか筆を握らなくなってしまった。 大学時代、唾を飛ばして芸術論を戦わせたボーイフレンドたちは、 商業デザイナーで活躍していたり、何度も二科展で入賞したりしている。 私の方が――― 私の方が、彼らより描けていたのに、と思うと、いつも目の奥が充血してくる。 描くのをやめてしまったのは私自身なのに、私は、彼らを妬んでいる。確かに。 夫や子供たちが出かけてしまった後の、午前10時半。 私は、ぼんやりとキッチンに立った。 最近は、食事の後、皿を洗うのがおっくうでたまらなくなっている。 しかし、朝食の後の汚れた皿を、洗わなくては。 それが私の仕事なのだから。 暗い流しに、黒い粒々が無数にうごめいているのを見つけ、 私は急いで蛍光灯のスイッチを入れると、 朝、コーヒー牛乳を作っていた息子がこぼした砂糖に、 小さなアリが無数にたかっていた。 私は、ティッシュで素早くアリたちを潰してゴミ箱に投げ込んだ。 しかし、どこから来るのか、アリは、次から次から湧いてくる。 私は何度もティッシュを換えて、何度も何度もアリを潰して捨てた。 砂糖も綺麗に片付けて、アリもみんな潰してしまった。 私は、アリも不憫なものだ、と思いながら、水を出し、 スポンジを湿らせ、洗剤を掛けた。 結婚して15年間、私は何枚皿を洗っただろうか。 夫に甘えながら。 子供をあやしながら。 怒鳴りながら。 ひとりぼっちで泣きながら。 絵を描くことしか能がなく、家事が苦手だった私も、 「少しは家事育児を手伝ってよ!」と夫に文句を言う時期を経て、 今は、何も深く考えずに、淡々と生活全般の世話をできるほどになっていた。 それは、我ながら大したものだと思う。 文句を言いながら家事をイヤイヤやっていた過去の自分と比べれば、 カッコイイじゃないか、とも思う。 しかし、私は、スポンジを何度も握って泡立てながら、 どうしても皿を洗えずにいた。 ぼんやりとその場に立っていると、目の端に、一匹のアリの姿が映った。 1匹だけ、出遅れたのろまなアリが、 仲間の出した匂いの信号につられてやってきたものの、ご馳走の姿はなく、 仲間も誰もいない。 どうなってるの、と、その辺を落ち着き無く這いまわる小さなアリは、 目標を失い、しかし、引き返すこともできずに、ただうろうろするだけだった。 私は、そのドンくさいアリにそっと指を近づけ、自分の指に登らせた。 そして、窓を開け、アリを外に放した。 私もドン臭いアリだ。 目標を失い、プライドを捨て、幸せそうな振りをしながら、 心は右往左往、何も無い広い場所でただ彷徨っている。 ここに砂糖があるはずだ、必ずあるはずなんだと、 何も無い場所を必死で探しているが、でも、実際、砂糖は無いのだ。 ふと、私の目に、炊飯用の備長炭が目に入った。 私はスポンジを置き、泡の付いたままの手で炭を持った。 キッチンの真っ白い壁紙に、私は炭でガリガリと線を書き殴った。 しかし、硬い炊飯用の備長炭では何も描けず、細い傷だけが壁に何本も刻まれた。 私は構わず、どんどん描き殴り、わけのわからないものをひたすら描いた。 墨は、私が一番うまかったのだ! 最近、新聞にたびたび登場するアイツよりも、 あのビルの内装をすべて手掛けたアイツより、 私が一番、うまかった。 私は、夢中で新築の白い壁に、深い傷で大きな絵を描きまくった。 私は描く。 描くしかないのだ。 描かなければ、生きていけないのだ。 もし今、この絵と家族の命と、どちらが大切かと聞かれれば、もう迷わず 「この絵だ」と言えるだろう。 私は、描くことしかできないのだ。 どんなに惨めに落ちぶれ、新聞紙にくるまって駅の構内で野垂れ死のうと、 私は、もう描くことしかできない。 描くことだけしか、できないのだ。今ここにあるすべてを捨てても。 ここに私の砂糖がないことを、気付いてしまった今となっては。 (了) |
(小さなお話) 2002.08.25 作 あかじそ |