「 淋しい秋の乗り切り方、厳しい冬のしのぎ方 」

 私は、はっきり言って喜怒哀楽が激しい方だ。
 で、自分の撒き散らしたものに自分が当たってしまい、
無駄な労力と無駄な疲れとに始終ぐったりしていて、
へろへろな毎日を送っていたりする。

 でも、まだ春や夏はいい。
 だんだん暖かくなってくることは生理的に嬉しいし、
暑いときゃ、ぐずぐず悩むのもアホらしく、だら〜っ、として過ごしている。
 問題は秋だ。
 朝晩寒くなってきているが、ストーブもまだ出ていない。
 唇の周りがかさかさ乾いてきて、枯れ葉が「かささささ〜」と足元を走っていき、
夏の名残のぺらぺらファブリックが安っぽ〜く見えてくる頃には、
もうすっかり淋しくて鼻をスンスンしてしまう。

 こんな調子で13年前、病院に世話になるほどのウツ状態になった。
 年々楽になってはきているが、この秋のスンスンは、
あの忌まわしきウツの入口なのだ。

 体質といえば体質なのだろうが、やがてくる更年期に
スンスンが何年も心にへばりついてはたまらない。
 その前にこのスンスンのヤローの扱い方を習得せねばならないだろう。

 まず、スンスンの生理的な理由を考えてみる。
 原始時代、動植物がびしばしとれていた夏場は過ぎ、
これから厳しい「食えない季節」がやってくるのだ、と思うと、
さぞかしみんな切羽詰ったスンスン状態になっただろう。
 命がかかっているのだ。
 生きるか死ぬかのスンスンだ。
 そんな切羽詰った命にかかわる危険を、血の中のDNAが覚えていて、
秋になると私たち現代人にわけのわからない
「やばいぜやばいぜ、相当にやばいことになってくるぜ」
という信号を発してくる。

 だから、理屈でなく、本能的にスンスンしてしまう。
 泣きたくなるほど不安になる。
 そしてまた、
「これからどんどん食えなくなる、食えなくなったらやばやばじゃん!」
と、満腹だというのに狂ったように食べまくる。
 食欲の秋、なんてもんじゃない。
 胃が破裂しそうになっているのに、
「もうだめ、もういや、もう食べられないのにぃ!」
と、泣きながら口いっぱいに飯や芋をほおばっている。

 そして、冬―――。

「この先の生活が不安」
だの、
「淋しい悲惨な老後になったらどうしよう」
だの、
「子供がああでこうで、どうしよう」
だの
「夫がこんなで悲しい悔しい切ないつらい」
だの、
何だかんだと理屈をこねくり回して、憂鬱になったり悩んだりしてみたりしてしまう。

 生理的には、「もう、寒くてやってられないって!」というところへ持ってきて、
部屋の中でじっくりまったり悩む時間を持ってしまうから、
だから悩んでみたりする。

 私は、もう、こんな面倒な秋や冬は、うんざりなのだ!
 もういい加減、楽しい秋や冬の過ごし方を身に付けたいのだ!
 
 で、考えた作戦は、題して・・・・・・

「もう心配することは何もない」作戦だ。

 何で心配になるのか、何で不安になるのかと言えば、
「もしああなったらどうしよう」
「万が一こうなたらいやだなあ」 
と思うからなのだ。
 心配や不安の種は尽きない。
「子供が学校でいじめられたらどうしよう」
「家族の病気が深刻だ」
「経済的に先行き不安」
などなどなどなど、数え上げたらキリがない。

 だから、「もしこうなったらイヤだ」のすべてをなくしてしまえばいい。
「もしこうなったら」でなく、「もしこうなっても」にしてしまえばいい。

「もしああなったら、こうしたらいいや」
「万が一こうなっても、こうすりゃいい」
と、思うといい。
「子供が学校でいじめられて救いのない状態になったら、
学校なんてやめちゃえばいい。山村留学に行って
田舎暮らしで人間らしい生活を体験できるチャンスじゃないか」
「家族の病気が深刻で、生きるか死ぬかになったなら、
死ぬまで一生懸命見守るしかない。どうせみんな死ぬんだもの。
死ぬ瞬間まで、愛されていることを実感させてあげられたら、
むしろお互い幸せじゃないか」
「先行きなんて気にしない。先のことなんて考えてたら、
とても怖くて生きちゃいられない。明日死んじゃっても、
『まいっか』と言えるような今日を生
きればいい。最悪、野垂れ死にだっていいじゃん」

 生まれちゃったんだもの。しょうがないやね。
 生きるしかないんだし、生き終わったら死ぬしかないんだから。

 しのごの言ってないで生きりゃあいいのサ!

 何百年、何千年、何万年の血の記憶は、
そう簡単には鼻スンスンを止めてはくれないけれど、
でも、腹くくれば・・・・・・腹、くくりまくれば、かなり不安は軽くなる。

 秋や冬には、心にノーテンキなアロハシャツを着て過ごそう。
 そして、だましだましまた春が来てしまえば、こっちのもんさ!

(しその草いきれ) 2002.10.14 作 あかじそ