鬼ばば母ちゃん 22100キリ番特典
テーマ「嬉しかったこと」
「おねしょ」

 私は、3歳頃の意識と現在の意識とが、
突然まぜこぜになってしまうときがある。
 逆にいえば、3歳頃、私の中にはいつも、
子供でない誰かの意識があったのだ。

 その夜、寝る前に大好物のスイカを山盛り食べた。
 「お前はいつも食べ過ぎなんだよ」
と、父に吐き捨てられるように言われて、
次のスイカに伸ばした手をゆっくりと引っ込め、
首をすくめて洗面所に行き、歯を磨いて寝床に入った。
 3歳にしては物分かりのいい方だった。
 両親が怖くて、たてつく事ができなかったのだ。

 布団に入ると、すぐに私は、明るい海辺の光景の中にいた。
 ビーチボールを片手で叩いて、海に向かって飛ばした。
 ボールは海からの強い風でこちらに押し返され、
あっという間に私の頭上を越え、後ろの方へと飛んでいってしまった。
 振り返ると、日の光がまぶしくて、ボールどころか、
何の景色も見えなかった。
 父も母もいなかった。
 何の音もなかった。

 ただただ、シー――――――ン、として、
波だけが音もなく打ち寄せ、海面がキラキラと光っている。

 私は、何か生理的な不愉快を感じていたが、
それが何なのかわからなかった。
 ふと思いついて、トイレを探して砂浜をとぼとぼ歩いていると、
海の家のトイレがあった。
 入ろうとすると、人がたくさん並んでいて、
いつまで経っても順番が回ってこない。
 だいぶ待って、いよいよ自分の番だ、というときになると、
どこからともなく人が現れ、また私の前に何人も並んでしまうのだ。

 私は、もう我慢できなくなり、ひと気のない砂浜の隅で
おしっこをすることにした。
 さあ、誰も見ていないし、パンツも下ろした。
 しかし、どうしても今ここでおしっこをしてはいけないような気がして、
なかなかおしっこは始まらなかった。

 (もしかして、これは夢かな?)
と思った。
(このままおしっこをしてしまったら、布団を濡らしてしまうかもしれない)
とも思った。
 でも、それでもいいや、と決心した。
 もう、生理的な憂鬱は我慢の限界だったのだ。

 (えいっ)

 おしっこは激しく温く、現実の私の腿を、
足を腰を背中を、たっぷりと濡らした。
 私は一瞬で目を覚まし、目をカッと見開いて
天井を見上げたまま固まった。

 (どうしよう)

 私が真っ暗な部屋でひとり思案していると、
母がふすまを静かにスッと開け、私に近寄ってきた。

(叩かれる!)

 私は身構えた。
 おねしょをしたのは、生まれて初めてだった。
 2歳前にオムツが取れてから、
私は1度もシモの失敗はしたことがなかったのだ。

「冷たいでしょ、早く脱ぎな」
 母は、静かに平然と私の寝巻のズボンを下ろし、
タンスの中から換えを出した。 
「怒らないの?」
と、私がそっと聞くと、
「出ちゃったんだから、仕方ないじゃないの」
と笑って言った。

 私は、驚いて母の顔をまじまじと見た。
 しかし、母の後ろから隣の部屋の光が漏れていて、
顔が陰になり、よく見えなかった。
 いつもちょっとしたことで怒鳴り散らしたり、
すぐに殴るのに、こんな大失敗をしても
ニコニコしているなんて、何か怖かった。

 母に許されたことに心底驚き、立ちすくんでいる3歳の私と、
その横でさっさと後始末をしている若い母。
 大人の私は、その光景を薄暗い部屋の天井付近で、じっと見ていた。

 許されるということ―――
親に、許されるということが、こんなにも嬉しいことなのかと、
驚きを以って、ずっと見ていた。

 
 あれから30年以上が過ぎ、
私は子供にガミガミ怒鳴ってばかりの親になっている。
 が、ちょっとしたことでもすぐに激昂してしまう自分が、
こと子供のおしっこやウンチの失敗となると、
まるで腹が立たないのだ。
 恐縮している子供に優しく諭して、
さっさと後片付けをしていることに、
ささやかな幸せさえ感じている。
 どんなに疲れていても、どんなに眠くても、
子供のシモの世話は苦にならない。
 
 あの頃、母におねしょを許された経験が、
私のある一部分をしっかり大人にしてくれていた。
 
「これをやったら、あれをしてあげる」
「これができなかったら、あれはしてあげない」
「ちゃんとやらなきゃ、承知しない」
 両親は、私たちきょうだいをそうやって育ててきた。
 だから私は、いつも誰にとっても「いい子」にしていなければ、
承知してもらえないのだ、とずっと思っていた。

 生きるのが耐えられなくなってきて、死のうと思ったときもあった。
 しかし私には、母にあの晩許された記憶があった。
 暗い天井から見下ろした、あの驚いた表情の3歳児と若い母親。
 その光景の一片が、飛び降りようとする私を引き止めた。

 たった1回だけど、私は許されたのだ、と。
 だから、まだ生きていていいのだよ、と。

 今は、思う。
 私は、いつもいつでも、許され続けてきたのだ。
 それを気付かなかっただけなのだ。
 愛を実感できない、ということは、
愛されていないのと同じくらいつらいことだ。
 実感できなかった自分の愚かさに、今は笑える。

 嬉しかったこと―――それは、母に許されたこと。
 そして、子を、許すことができたこと。

 あの晩のおねしょがなかったら、今、
私やこの子たちはいなかったかもしれないのだ。

                           (了)

(青春ってやつあ) 2002.10.28 作 あかじそ