小さなお話 「ウカンムリ」



 私は今、自分が言い放ったセリフに、
自らの胸を打ち砕かれ、頭をフリーズさせてしまった。
 
「お前なんか大嫌いなんだよ」

 私は、このことばを自分の息子に浴びせ掛け、
息子は、ちゃぶ台に突っ伏して号泣している。
 私が子供の頃、両親に言われ、
決して誰にも言うまいときめていたそのセリフを、
ついに口にしてしまったせいだ。

 私は子供時代に、親にこのセリフを毎日言われ続け、
自分を、他人を、子供たちを、この世の誰も彼もを
好きになれなくなってしまっていた。

 それなのに、必死に周りに気を使い、
嫌なことを言われても、にこにこ笑っていい人を演じてきたのは、
大人になった今でも
「人に嫌われたら生きていけない」
という強迫観念に囚われているからなのだ。

 連日父に「殴る蹴る」をされ、「死ね」と言われ、
「それでもがんばれ」と母に言われたあの家を捨て、
振り向きもせずに生きてきた。
 不器用だが私に決して感情の刃を向けない今の夫の
もとに転がり込んで14年。
 結婚してからは12年経った。
 
 私は今、幸せだろうか?
 
 捨ててきたものから完全に解放され、
自分の思うような生き方ができているのだろうか?
 
 答えは「ノー」だ。

 私は、父に言われた「お前が大嫌いだ」を息子に言い、
母に言われた「それでもがんばれ」を実践し続けている。
 私は、36歳になって所帯を持っても、
まだあの人たちの亡霊にとりつかれているのだ。
 いまだに毎日、あの頃の父に「大嫌い」と言われ続け、
「それでもがんばって」いる。

 自分育った家を捨て、ちがう家を作って住んでいても、
 その家も、決して住みよいものでなく、
イライラと頭を掻き毟っているのだ。
 だが、あの頃のように、この家族をバッサリ捨て、
違う場所に逃げ出すことは、おそらく私にはできないだろう。
 
 では、私は一体どうしたいのだ。
 一体、何がどうなればいいと思っているのだろう。

 家庭を持ち、仕事を持ち、何か新しい環境に包まれると、
決まって若き父の悪魔が現れ、
「お前が大嫌いだ」と私の耳元で何千回も囁き、
凍りつく私は、何ひとつ成就できずに中断してしまう。
 頑張る力がどうしても出ない。
 
 目標を見つけ、ポツリと小さく心に灯が点いても、
それはすぐに「くだらないこと」「どうせ無理なこと」と思えてしまう。
 電池の切れた安いプラスチック玩具のように、
私は自分をも見捨ててしまっているのだ。

 ああ、家。ウカンムリ。
 
 私は、雨風しのぐその傘の下にすぐに逃げ込むけれど、
いつもその端に追いやられ、大量のしずくに打たれて、
返ってずぶ濡れになってしまう。
 自分の差す傘からさえも、はじき出されてしまうのは、
ああ、なぜなんだろう。

 子を持って、もう大人であるはずのこの中年が、
いまだに父母の抱擁や「生きることの許し」を乞うている。

 父母を捨てたのなら、父母の放ったことばさえも
自分の中から捨てているはずだ。
 若い両親が気分次第に言い放った、
その毒のことばさえも、
綺麗な菓子の包み紙のように大切に宝物入れにしまっているのは誰だ。
 
 
 私は、ある日、もう本当に何もかもイヤになってしまった。

 私にすっかり甘えてしまっている夫や子供たち。
 子供は、自分の思うようにならないとみんな私のせいにして暴れ、
窓を割り、食器を床に叩き付け、私を殴る。 
 夫は、見て見ぬふりでご出勤だ。
 
 逃げても逃げても、
気がつけば私の頭の上にはウカンムリが被さっていて、
孫悟空のキンコ冠のように、
ことあるごとに私のこめかみをきつく締め付ける。
 家族が、家庭が、私をがんじがらめに縛り付ける。

 家って、一体何なんだろう。
 疲れた羽を休めるはずのバックグラウンドが、
最前線の戦場になっている
 一番身近な人にこそ、一番気を張っている。
 違う自分を繕い続けている。

 何なんだ何なんだ、何なんだ家って。
  
 落ち着いて考えてみよう。
 傷心の乙女心は置いておいて、
冷静に、ヒトゴトのように考えてみよう。 

 私は、奔放な親に気分次第で育てられた。
 でも、彼らは彼らなりに私を愛してくれていた。
 今でも、たぷん愛してくれている。

 夫は、仕事が忙しくて、どうにもならなくなっている。
 自分のことで精一杯。
 一年以上も休日がなくて、生命活動を維持するのがやっとだ。
 男親としての仕事は、やりたくてもできないのだろう。
 これは決して好ましい状況ではないが、
「私が考え方を変えること」が、私にできる唯一の努力だ。

 子供は反抗期なのだ。
 反抗期は、健康な成長の証だ。
 育児のひとつの経過だと思って、
いちいち心に波風を立てずに過ごしていこう。
 悪いことをしたらきつく叱り、 
「それでも私はあんたたちを愛している」
という信号を発し続けていれば、
きっと彼らは穏やかな大人になって戻ってくるだろう。

 そして―――。

 きっと私は、ウカンムリを被らなければ、
今までも、そして、これからも、淋しくて生きてはいられないだろう。
 ひとりで自由に飛び回ることよりも、
不自由でも、傷ついても、このキンコ冠を自ら被るだろう。

 この家を捨てずとも、このキツイキツイキンコ冠を被りながらでも、
きっと私は、生きていける。
 心癒しあう同士としては在り得ないキャラクターばかりの家族でも、
それでも同じウカンムリを被って暮す人たちなのだ。

 ぐずぐず言ってないで、とっととあきらめて、
今が一番キツイ時期なんだ、と腹をくくって、
もっと気楽に「家」をやろう。
 
 私は、外へ出て、冬の青空を見上げ、深呼吸してみた。
 「空」という字も、ウカンムリだな、と気付いた。

―――空を被って生きるのも、いいものだな。

 私は、頭痛が一瞬やんだ気がした。


             (了)


                   
(小さなお話) 2002.12.17.作あかじそ