しその草いきれ 「柵を飛び越える」
思春期を過ぎ、一番強気だった頃を過ぎると、
私の気力は、どんどん空気が抜けていき、
数人の乳幼児が自分の体に絡みつく中、
しぼみきったよれよれの風船のようになっていた。
大学も出た。
車の免許も取った。
結婚もしたし、子供も生まれた。
しかし私の気力は、しぼむ一方だった。
これから先、
自分は「主婦」という人をやって生きていくのだろう、
子供を育てながら空いた時間は
パートに出て家計を助け、
時々PTAの会合に出たり、
雑誌を読んだり、
サークルに入ったり、
年をとったら退職した夫と
日帰りバスの旅行をしたりして生きていく、
という路線なのだろう。
それはそれで素晴らしいのだろうが、
どうしても絶望的な気持ちになってしまうのだった。
思えば、私はいっときだって休んではいなかった。
妊娠・授乳中は、ひたすら倹約生活に励み、
体が少しでも空くようなら、
託児所に何人もの子供を預けて
あちこちの仕事に駆けずり回っていた。
一日でも無駄な時間を持ちたくなかった。
自分が今できることのすべてを全力でしなければ、
自分が死んでしまうような気がして、必死だった。
その結果、現状にケツを蹴っ飛ばされるように、
私はいろいろなことができるようになっていった。
臨月の腹で自転車にまたがり、
前には5歳児、後ろには7歳児を乗せ、
背中に3歳児をおぶって全速力でペダルを漕いでいたら、
たくさんの見ず知らずの人たちに
「車にしなさいっ!」
と注意された。
10年以上ペーパードライバーだったが、
恐る恐る運転席に座ってみた。
はじめは、まるで飛行機の操縦席に座っているような、
「どうしましょう」
という気持ちだったが、
近くの大きな駐車場で何十周も徐行運転で練習したりしながら、
だんだん近くのスーパーくらいは行けるようになってきた。
しかし、駐車場が入りにくかったり、
交通量の多い交差点を右折しなければ行けないところなどは、
決して行かなかった。
ところが、次の仕事では、
隣町まで国道を乗り継いで連日車で通勤せねばならなくなり、
結局は、ひとりでキーキー悲鳴を上げながらも
自動車通勤をするようになっていた。
必要に迫られて、ケツを蹴っ飛ばされて、
やっとできるようになったこと―――
―――運転。
―――パソコン。
―――仕事。
―――人の親。
自分はそんなことは無縁だ、
関係ない世界だ、と思っていたことが、
ヒーヒーキーキー言いながらやらされていくうちに、
気がついたら出来ていた。
今思えばそれはどれも、本当はできることだっただろうに、
「自分はダメだ、できない」
と思い込んでいただけだったのだ。
臆病で、気力も薄く、心配性な私には、
見えない幾重もの柵が取り囲んでいたのだ。
いや、今でもまだ取り囲んでいる。
できない、めっそうもない、と思い込んでいるだけで、
本当は「やってみていない」だけなのだ。
ある日突然思いついて、
めちゃめちゃ勉強をして、
医者になってしまったおばちゃんがいたらしい。
医者になって、
夜間の急病人をどんどん引き受けているという。
自分の子供が喘息発作の時、
深夜に誰も診てくれなかったからだそうだ。
ある日突然家を飛び出して、
ヨーロッパに行ってしまった初老のサラリーマンがいた。
今は、どこかの国の道端でビロードを敷いて、
日本の寄席文字を書いては売って暮しているという。
「自分の居場所がそこだと思ったから」
ただそれだけの理由で、彼はそれまでの人生を捨てた。
私は、幸せなことに、
ただただ不安で不満だった自分の主婦人生に気が付いた。
「主婦」という範囲の中で、できることを探そうと必死だった。
「主婦」というものに希望を見出そうとして、命がけだったのだ。
「主婦」として挑戦したこと、
その、どれもこれもが自分に不向きだったことを思い知り、
ひとつひとつ絶望を重ねていたのだ。
「主婦」なのに、「主婦」に向いていないことで、
自分を人生の敗北者だと決め付けてしまっていた。
これから主婦以外の何にでもなれるというのに。
この間子供に、
「お母さんは将来、何になりたいの?」
と聞かれ、ハッとしてしまった。
私にも将来はあったのか、と。
「すでに【主婦という人】になっちゃったから、もうおしまいなのよ」
と思っていた。
しかし、ちょっと寄り道をし過ぎたが、私にはまだまだ将来がある。
今までケツを蹴っ飛ばされて飛んでいた幾つもの柵。
今度は、自分で助走をつけて、
「えいやあっ!」
と飛んでみようか。
私には何ができるのだろう。
私は、何になれるのだろう。
柵の存在に気付くことができれば、
それはもう、越えたも同然なんだ。
(了)