しその草いきれ  「ばったばた」

 さんざんな一日だった。

 その日は、いくつか買うものがあり、
2歳の四男をママチャリに乗せて大型スーパーへ出かけたのだ。
 いつものお菓子屋でチョコを買うと言い出した2歳児は、
私に断られ、自転車の前の子乗せ椅子で絶叫しながら、
両手を上げて立ったり座ったりの「ウエーブ状態」になった。
 激しい蛇行運転となり、身の危険を感じた意志の弱い私は、
ため息まじりにそのお菓子屋に行き、
いつものお菓子「コアラのマー○」を買ってしまった。
 ああ、これでまたこの子に、
「ぐずれば思い通りになる」
という刷り込みを強くしてしまった。
 
 ともあれ、時間の猶予がなく、とにかく急いでいたので、
さっそく目当ての売り場へと子供の手を引いて走ったのだが、
「ああ〜〜〜〜っ!」
と、子供が叫んで立ち止まり、動かなくなった。 
 振り返ると、来た道なりにコアラが何匹も床に倒れているではないか。
 2歳児はいつの間にかお菓子の封を切り、
勝手に食べ始めていたらしい。
 私は低い姿勢で忍者のように走っていき、
片っ端からコアラを拾って集めた。
 鼻の穴をカッ開き、肩で息をしながら
「ハアハア、これはもう、ハア、汚いからハア、捨てようね」
と2歳児に言うと、
「いや〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
と、床にひっくり返り、断末魔のゴキブリのように、
くるくるくるくる回りながらまた絶叫だ。
「わかったわかった。じゃあ、汚いけど食べれば!」
と、やけくそで元の箱に突っ込んで子供に渡し、
また手をつないで走った。
 とにかく時間がない。
 何でこんなに切羽詰まっているのかというと、
午前中に済ませるはずの大事な買い物があったのに、
なぜかぼんやりと午前中を過ごしてしまい、
三男の幼稚園バスが帰ってくる直前に思い出して慌てて決行しているのだ。
 
「急いでっ! 急いで〜〜〜っ!」
 四男が一緒にいてよかった。
 こういうとき私は、きまってひとりごとを大声で言ってしまい、
非常に不審な人物と化してしまう。
 
「やばいって! やばいってっ!」
「どうなんのよっ! どうなんのよ、このばやいっ!」
と、大声で叫びながらひとりで道を走っているのを、
大勢の人たちに目撃されることもある。
 何度もある。
「右折して左折! ちゃう! 直進のち右折! いやん、どっちも怖い!」
などと、運転中も常に心模様を実況中継してしまう。 
 とにかく、私はパニックになると心で思ったことが
すべて口をついて出てきてしまう癖があるのだ。

「時間がないんだってば〜っ! そんなの自分が悪い! 
でも疲れてたんだから仕方ないって! いいから走って!」

 もう、人から見たら、ほとんど多重人格だ。
 その怪しさをごまかすのにちょうどいいのが子供なのだ。
 親子で会話していると思われる。
 いやしかし、それにしても―――。

 下りエスカレーターで2歳児が突然、
「もうかえる〜〜〜っ!」
と、そっくり返り、手に持った菓子がぶち撒かれた。
 エスカレーターはやがて地階へと到着し、
どんどこどんどこ地面へと潜り込んでいった。
 ぶち撒かれたコアラたちは、ステップの溝という溝に食い込み、
ざくっざくっ、ざくっざくっ、
という小気味いいリズムで粉々に粉砕されていった。

「すんまっせん、すんまっせん!」
と言いながら、私は地面に突っ伏し
他の買い物客たちの足元に手を這わせて、
その菓子の残骸を掻き集めた。
 その横で2歳児は、
「コアラ〜ッ! コアラかえちて〜〜〜っ!」
と、より一層吠えている。

「いいからこっちこいや〜〜〜っ!」
と、強引に手を引いて目指す売り場に到着するや、
そこには、悲しき「売り切れ」の看板が・・・・・・。

「マジかい、マジかい、マジかいっ!!」

 しばし呆然とするが、
そうそうゆったりショックを受けている時間もない。
 三男の幼稚園バスが帰ってくる。
 お迎えの時間にバス停にいないと、
非情にも遠い遠い園まで連れ戻されてしまうのだ。 
 園に三男を引き取りに行っていたら、
今度は次男の歯医者の予約時間に間に合わない。
 次男の歯医者エスケープも連続4度目だ。
 これ以上予約をばっくれたら、あの受付嬢のことだ。
もう絶対に許してはくれまい。
 何が何でも、首根っこ掴んでも、
次男を歯医者に連行せねば。

 私たちは、昇りのエスカレーターを駆けのぼり、
今来た道をとって返した。

「先生、今日も例のお道具、用意できませんでした! ああ、いいですよ。 
えっいいんですか? 明日の朝にまた持たせてくださいね。 わかりました。
 いつもすみません。 いいえ、こちらこそ・・・・・・」

 私は相当取り乱していたのだろう。
 綿々と先生への言い訳と、先生との会話のシュミレーションを口の中で繰り
返しながら走っていた。

 と、今度は四男、もじもじしだして、
「ウンコ出た」
と言う。
「出た!?」

 私は、四男を小脇に抱えるとトイレへと直行し、
そっとズボンを下ろしてみる。
 コロッ、と出てくるものはなかった。
 ゆっくり靴を脱がせ、更にズボンを脱がせ、股を開かせると、
お尻からウンチが「発露」していた。
「ウンチ君お顔出してる〜〜〜っ!」
 急いで便座に座らせ、続きを促した。

 何とか出すべきものを出すべきところに出して、
ちょっとホッとしたところで、携帯電話で時間を見る。

「2時40分〜〜〜っ!!!」

 私は、無声で悲鳴を上げ、四男の尻を拭く手も止まった。
 また、ふと見ると、四男は、
便器の前部分の汚いところを思いっきり素手で掴んでいる。 

「イヤッ、そこ持っちゃダメダメ!」
 私が慌てて四男を便器から引き剥がすと、
叱る私の口を塞ごうと四男の手のひらがゆっくりと私に近づいてきた。
 ああ、便器をグワシと握ったその手が、私の口に近づいてくるっ!
「イヤア〜ッ!」
と、言いかけたその私の口に―――
四男の可愛くて凄く汚い手のひらが迫り―――

カプッ。

 思いっきり手首までくわえてしまった。

 四男もびっくりして私の口の中の手のひらを
グッパーグッパーしている。
 
「ぼえ〜〜〜〜〜っ」

 私は、遠い目でゆっくりとその手を吐き出し、
にっこりと笑った。
 バスの時間?
 もう全然間に合わないっつーの。
 歯医者の予約?
 もう、そんなことはどうだっていいのです。
 
 こんな時のために、私たちの世代は、
うってつけのセリフを体に覚えこまされているのだから。

 さあ、言おう。

 そのひとことを。


「う〜ん、だめだこりゃ〜」


      
                    (了) 

しその草いきれ 2003.2.4.作あかじそ