しその草いきれ 「立川のおばあちゃんへ」

 昨日、90歳を少し過ぎた父方のおばあちゃんが亡くなった。
 5年前、最愛のおじいちゃんが先立ち、
ここ数年は、静かに長男夫婦と暮していたが、
病院で、誰の手を煩わすことなく、
眠るように静かに静かに亡くなった。
 おそらくおばあちゃんは、生まれたときもこうして
誰にも迷惑をかけずに静かにやってきたのだろう。

 私は3歳で父が転勤するまで、おばあちゃんと一緒に暮していた。
 初めての女の孫で、父方の血を濃く受け継いだ私は、
孫たちの中でも特に可愛がられていたように思う。
 4人の男の子とひとりの女の子、計5人を
戦争の最中に育てていたおばあちゃんは、
シャイだがとても明るく、
いつもいたずらっぽい笑顔で目をキラキラさせていた。
 人をアッと言わせるのが大好きで、
親戚が集まるたびに必ず何か楽しい仕掛けを繰り出してくるのだった。
 
 正月に12人の孫たちが集まると、いつの間にか席を立ち、
暗い納戸の奥で背を丸めて何やら仕込んでいた。

 「ちょっとみんな来てみな〜」

 というおばあちゃんの声にみんなで駆けつけると、
20枚ほどのせんべいが糸で縫いつなげてあり、
「パン食い競争」ならぬ「せんべい食い競争」の装置が
台所狭しとセッティングされているのだ。
 
 またある時は、古布を綯って作った1メートルほどの紐に
50円玉を何百枚と通したものを孫たちの前にぶら下げ、
「さあさあ、花札大会で優勝した者にはこれをやるよ〜」
と言い、みんなから歓声を浴びていた。

 暗い納戸で固いせんべいを糸で縫いつなげているおばあちゃんは、
孫たちの驚き喜ぶ顔を思い浮かべては、
時々くくくとこみ上げる笑いを押し殺していたりしたのだろう。
 また、普段の年寄りばかりの静かな暮らしの中で、
こっそり50円玉を1枚、また1枚と集めては、
「子どもたちみんな喜ぶだろうよ」と、くくくと笑っていたのだろう。

 孫がトイレに立つと、すかさず洗面所や廊下の影に待ち伏せし、
「これ取っときな。ママには内緒にすんだぞ」
と言って手の平に無理矢理千円札を握らせ、
また素早くどこかへと消えるのも得意技だ。
 
 盆や正月や、彼岸の墓参りでおばあちゃんの家に寄ると、
いつも食べきれないほどのごちそうを掘りごたつの上に並べ、
親戚の衣料工場から安く大量に買ってきた(買わされた)
難アリの衣料品をイヤってほどくれた。
 その洋服というのは、どれも見たこともないような色柄とデザインで、
みんな声を揃えて
「なにそれっ!」
というセンスのものだったが、
「いらない」というとおばあちゃんが悲しむと思い、
ダンボールで何箱ももらってきていた。
 が、数年後、それらそっくりのデザインがパリやミラノで流行し、
デパートで何十万という値が付けられて売っているのだ。
 センスが時代の先を行き過ぎて、
誰にも振り向かれないその洋服たちは、
生前認められずに野垂れ死に、
死後才能をを認められた天才画家みたいなものだ。
 その価値の高さを誰にも気付かれずにいる、
静かなる在野のアーティストのような存在は、
まるでおばあちゃんそのものだった。
 
 庭には、丹精こめられた植木が、
オリジナリティーあふれるデコレーションをされていたし、
河原で拾ってきた粋な流木やどくろの形の石ころが、
玄関や和室にオブジェとして飾ってあった。

 おばあちゃんは、裏の白い広告を糸で綴ってノートにし、
自作の俳句や短歌をいつくもいくつも書いていた。
 私が遊びに行くと、いつもそれを取り出してろうろうと読み上げ、
「どうだい、ちょっとオツだろうよ」
と自慢げだった。
 それらはどれも誰の作風とも違う独特の節回しで、
地べたに根を生やして暮す百姓生活をイキイキと歌っていた。

 先祖に俳人がいたらしく、親戚一同、
みなちょっとした言葉遊びが好きであった。
 物事をちょっとひねって
面白おかしく語るくらいのことができないヤツはつまんないよ、
と、いうムードがこの一族の中には漂っているのだ。

 そういう、ちょっと変わった人たちの中にあって、
私はおばあちゃんに特別可愛がられた。
 私はふたつみっつの頃から芝居がかった話し方が得意だった。 
 仲の悪い嫁さん同士の台所の隅でのチクチクした会話の一部始終を、
かなりデフォルメした演出でひとり二役で再現したりして
おばあちゃんの腹を何度となくよじらせ、
内緒の小遣いを更に追加されたものだ。
 
「まったくこの子はなんていう可笑しな子だろうよ」
「とぼけた顔をして、いやんなるくらい大人の世界をよく見てるよ」
と、おばあちゃんはひーひー笑いながら言っていた。

 思えば私はおばあちゃんと気質が似ているのだ。
 私が続けて4人男の子を産んだときだって、
みんなは「男腹なんだよ」と苦笑していたのに、
おばあちゃんだけは
「あたしに似てるんだから、次の子は女だろ」
と言ってくれたのだ。

 そういえば、クソマジメで実直そのもののおじいちゃんが
亡くなる前に病床で言っていた。

「あれは淋しがりだから、
あれひとり残して俺が先死んじゃうわけいかないんだよな」

 でも、おじいちゃんは先に死んでしまった。
 おじいちゃんが焼きあがって釜から出てきたとき、
その骨を見ておばあちゃんはその場で30センチくらいビクッと飛んだ。
 あまりにショックで悲しくて淋しくて、
体が勝手にビクッと飛び上がってしまったのだろう。

 もともと私たちのこの家は、
子供に恵まれなかったひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの
裏ワザによって無理矢理引き継がれたのだ。
 ひいおじいちゃんの甥とひいおばあちゃんの姪を、
それぞれ有無を言わさず結婚させ、互いの血を掛け合わせた。
 その可哀想な姪がおばあちゃんで、
可哀想な甥がおじいちゃんだった。
 はじめは互いにどう思ったのか知らないが、
最後には人目もはばからず愛し合っていたのだから、
何がどう幸いするかわからない。
 そこに至るまでには多分、物凄い努力や忍耐もあっただろうが、
ふたりはバラバラに苦しむよりも手を携えて乗り越えて行くことを選んだ。
 私たちの今の当たり前の暮らしは、
おじいちゃんとおばあちゃんのこの生きざまの上に
何気なく成り立っていたのだ。

 私はめったに人を尊敬しない人間不信の子供だったが、
このおじいちゃんとおばあちゃんだけは無条件に尊敬していた。
 ひいじいちゃんは太平洋戦争以前にコンクリート事業を始めたが、
戦争中の大量の防空壕の受注によって
この家は戦争成金になったという。
 しかし戦後、その利益のほとんどを市に寄付してしまったと聞いた。
 
 「何でそんな勿体無いことしたの」
と、後を追い掛け回して聞く私に、
「戦争で儲けたものなんていらないよ」
と、おばあちゃんはいんげんの筋を剥きながら淡々と言った。
 そして、地元におばあちゃんの名のつく公園がひとつできたのだ。


 ここ数年、おばあちゃんのところに会いに行くたびに、
だんだんと表情が無くなっていった。
 長男に当たるおじさんは、また物凄くいたずらっぽい人で、
ケラケラ笑いながら言うのだ。

「時々、オヤジのベッドで
オヤジの遺影に蝉みたいに抱きついてるヤツがいてよう。
よく見たらオフクロなの。
いつも夫婦で手つないで寝てたからなあ」
 
みんな一瞬笑ったが、
笑いながらどんどん淋しい気持ちになっていった。
 
 おばあちゃんはとてもとてもとてもとても淋しかったのだろう。
 私も半端でなく淋しがりやだから、気持ちがよくわかる。
 年々、体力も気力も、どんどん弱っていくのがよくわかった。

 そして、今年の1月6日。
 おばあちゃんの次男、つまり私のおじさんが、
自転車で犬の散歩をしているとき、
心臓発作を起こして倒れ、病院に運ばれたが亡くなってしまった。
 子どもの頃から家の手伝いをよくやって、
早くに米屋に丁稚に行って死ぬほど働き、
結婚してからもしょっちゅう親に会いに行き、
両親に優しいことばを掛けていた、本当に優しいおじさんだった。 
 
 おばあちゃんにショックを与えないように、
と、おじさんの死はおばあちゃんには知らされなかった。
 ちゃんと知らせて、お別れさせてあげた方がいいんじゃないか、
という意見もあったが、私は、おばあちゃんの性格だったら
やっぱり知らせない方がいいだろう、と思っていた。
 知らせてしまったら、今度は50センチも1メートルも
ぶっ飛んでしまうだろう。
 でも、おばあちゃんは勘がいい人だ、
 連日顔を見せに来ていた息子が突然ぱったり来なくなったら
何かあったな、とは思っていただろう。

 おばあちゃんは、いよいよ体がきかなくなってきて入院してからは、
食事も摂らず、こんこんと眠り続ける日が続いていた。
 私も見舞いに行ったが、
顔色もよく、いびきなんかかいてすやすやと寝ていた。
 薬で眠らされているのかもしれないけれど、
以前、母方の祖母が意識がハッキリしたまま
延命治療で苦しんでいたのを見ていたので、
このまますやすや眠ったまま死ねるのは、
とても幸せなことなのではないか、
と、私は思っていたのだが、本当にそうなってしまった。

 おばあちゃんは今ごろ、優しい息子におぶわれて、
「おう、おふくろ、こっちだよ」
大好きな夫の元へと案内されているだろう。
 目をキラキラさせて、
「おう、これがあの世かい?」
なんていたずらっぽい瞳であちこち覗き込んだりしているんじゃないか?

 おばあちゃんが死んだという知らせを聞いたら、
ちょっとホッとして、その少し後、ガクッと力が抜け、
風邪をひいているせいもあり、私は寝込んでしまった。
 そして閉じた目の裏では、
ありし日のおばあちゃんとのシーンが次々と浮かんでくるのだった。

 キラキラの目で私を見つめて何度もうなづくおばあちゃん。
 夏みかんを剥くおばあちゃん。
 火鉢でもちを焼いてアツアツを放り投げてくるおばあちゃん。
 洋服を広げて、「当ててみろ当ててみろ」と言うおばあちゃん。
 そばを踏むおばあちゃん。
 そばをゆでるおばあちゃん。
 幼い私がそば粉で練って作ったぞうさんを、熱い湯の中から取り出して
小皿に乗せたおばあちゃん。
 「ゾウができた!」と叫ぶ私に、
 ニヤリと笑う。キラリと光る金歯。
 畑のニンジンをうまく抜けない私を叱り、
 「木に咲く花が一等いい」と言ったおばあちゃん。
 笑うおばあちゃん。
 芸術家のおぱあちゃん。
 私を確かに愛してくれた、立川のおばあちゃん。

 おばあちゃん出演のシーンは、とめどなく浮かんできた。
 きりが無くいつまでも浮かび続けてきた。

 今、なんとなく自信や意欲を失ってしまっている私に、
おばあちゃんの死はなぜか突然勇気をくれたような気がするのだ。
 おばあちゃんは有名人でもなければ偉人でもないけれど、
子ども5人と孫12人、曾孫が今のところ7人。
 これからもどんどん増えていくだろう。
 おばあちゃんとおじいちゃんは、ひとつの大きなファミリーを作ったのだ。
 確実にたくさんのものを世に残した。
 
 戦火をくぐって畑を耕し、
手が切れるまで洗濯板で大量の汚れ物を洗い、
いつもうずくまって雑巾でごしごし部屋中を拭き、
舅姑にいびられて、我慢我慢で青春を過ごし、
子を産み、育て、嫁をとり、嫁に出し、
そして、その合い間合い間に
句をひねり、歌を読み、暮らしを飾り、風流を愛した。
 可笑しいことを見つけては笑い、子供のような目をしてものを見ていた。

 心の中でおばあちゃんに話し掛けてみよう。
 きっとたぶん、聞こえているだろうから。


 立川のおばあちゃんへ。

 いい人生だったね。
 なかなか粋だったよ。

 私は、おばあちゃんに似ているんだから、
きっと私の人生も粋だよね。

 無理に何かしなくてもいいんだね。
 偉くならなくても。
 私らしく生きること、それはすなわち、
おばあちゃんの心を、命を継ぐことなんだものね。

 おばあちゃん。
 おばあちゃんが私の中にいるのがわかるんだ。
 勇気が出てきたよ。
 また明日からちゃんと生きられそうだよ。
 自分を許してやれそうな気がしてきたんだ。

              (了)


 ――追記――

 電話に出るとき、おばあちゃんは死ぬまで
「はい、コンクリ屋です」
と屋号を言っていた。
 「そういえばおばあちゃんて
戦争で儲けた財産を
全部寄付しちゃったんだよね、えらいよね」
と、私がおじさんたちに言うと、
「ちがうちがう。ありゃ単なる税金の計算間違いなんだって」
「おれらみんな計算できないバカばっかりでなあ!」
「後で手ぬぐい噛んでみんなで悔しがったっけなあ!」
「あの後ひでえ貧乏したよなあ!」
と、口々におじさんおばさんたちが笑っていた。
 「戦争で儲けた金はいらない、っておばあちゃん言ってたけど」
と私が言うと、
「そりゃ負け惜しみ負け惜しみ!」
と、またみんなでゲラゲラ笑った。

 おばあちゃ〜ん!
 美談作って孫だましたなあっ!
 つまんない事実を面白可笑しく作り変えたな!

 そんな、不完全でお茶目なおばあちゃんを
私はまたどんどん好きになっていくのだ。


                 しその草いきれ 2003.4.11. あかじそ作