しその草いきれ 「頭ん中をかたづける」
ここのところ、大切な人たちがどんどん亡くなっていくということが続き、
正直、めげている。
今までは、めげている自分、というのもひた隠しにして、
「いつも元気で明朗で平常心です」という顔をしていたが、
もう、これからは、
「今、私はめげています」
と、看板を掲げておくことにした。
玄関に「押し売りお断り」とか「猛犬注意」とか書いたり、
車に「子供が乗ってます」とシールを貼ってしまうように、
とにかく先にこちらから表明してしまうことにした。
別に誰もそんなこたぁ聞いちゃいないのだが、
自分の中で「普通モードを保つエネルギー」を節約できる。
思えば、今までどんな道でもギアチェンジなしで
力いっぱい駆け抜けてきた私という車はかわいそうなものだ。
気持ちいい一直線の道も、
急なのぼり道もくだり道も、
高速道路も徐行運転の通学路の路地も、
ただやみくもにアクセル全開で疾走してきたが、
いつでもどこでも同じ調子で走ろうって方が間違いなのだ。
今、自分がどこにいて、マシンの調子はどうで、
何をしに、どこに向かっているのか、ということを
ちゃんとわかって走らないと、
車もすぐ駄目になってしまうし、事故ばかり起こしてしまうのだ。
何も考えずにただ走りたい、ただ純真に生きていたいと思って、
そうしてきたけれど、
私は人里離れた山の中でひとりで暮らしているわけではなく、
街に暮らす者なので、それは許されないのだった。
ちょっと落ち着いて、ちょっと心を落ち着けろ、
整理しろ、と、自分に言いたい。
ところで、部屋を片付けると気分転換になる、というのは
みんな経験上知っているが、
心の中も時々意識的に大掃除しないと
こまかい埃やごみやカビで、心の病気になってしまう、
ということは考えられないだろうか。
「ちょっと気分転換」
とタバコを吸ったり酒を飲んだりするのは、
毎日やっている(非常に表面的な)掃除機がけみたいなもので、
「今日嫌な事があった」
とか
「なんかむしゃくしゃする」
とかいう心のゴミは取れるけれど、
心の「サッシの溝」とか、心の「押入れの奥」とかに溜まった
「ヤツのここがどうしても許せない」
とか
「昔の心の傷」
みたいなものは全然きれいに片付いてはくれないものだ。
面倒くさくて気づかない振りをしている納戸の中も、
一日かかって整理してみれば、
案外、ずっと引っかかっていたこだわりや恨みつらみも
サッサとゴミ袋に突っ込んで捨ててしまえるものだ。
私は、毎週作文を書くことで、
どけだけ多くのいらないものを捨てられたか、
どれだけ多くの心の荷物を整理できたかわからない。
ちゃんと人に読んでもらうことを前提に書くということは、
あれとこれは同じジャンルで、これは無駄、という風に、
知らぬ間に心の粗大ゴミを仕分けして片付けていくことになるのだ。
誰だって普通に暮らしていれば、
心にゴミやチリが溜まってしまう。
ゴミは最初からゴミだったわけではないから、
初めは喜んで自分の中に取り入れたりしたものだ。
でも、気づかぬうちにそれは自分の居場所を狭くして、
腐敗して異臭を発し、自分の中に毒を回してしまう。
さあ今すぐ心の押入れを開けて、
クローゼットを開いて、
禁断の「開かずの間」のドアを開き、
片っ端からかたづけよう。
あの頃あんなに大切だったあれはもう、
そんなに大事なものではなくなっているでしょう?
あの頃あんなに傷ついたあの思い出は、
今となっては結構いい勉強だったと思えるでしょう?
その「うらみつらみ」はもういらないよね。
捨てよう。
あっちの「たのみの綱」は、もう使ってないよね。
燃えないゴミに出そうよ。
かたづいた心で、新生活を始めよう。
春だもの。4月だもの。
書いて、人に読んでもらって、かたづけよう。
書くのが苦手だったら、誰かに聞いてもらおう。
聞いてくれる人がいなくても、
独り言でもいいから、べらべらしゃべって出しちまおう。
みんなでほっかむりして、大掃除大会だ。
(了)
(しその草いきれ)2003.4.22 あかじそ作