しその草いきれ 「祈りの習慣」
私には信仰がない。
子供の頃から母に
「何者にも頼るな。誰にもすがるな」
と言われていたからだと思う。
しかし、信仰というものは、
おすがりするだけではないのだ、と
最近気が付いた。
墓参りで墓に手を合わすとき、
初詣で拍手を打ち、頭を下げるとき、
今までごちゃこぢゃとした雑事でいっぱいだった頭の中が
一瞬真っ白になって静まるのを感じるのだ。
「祈願」というと、
何かを願う、つまり神や仏に頼みごとをすることだけれど、
強く願えば願うほど、
その願いが叶わないときの「うらみつらみ」は強いと思う。
いるのかいないのかわかない神や仏に
勝手なお願いをして、
叶わないことを逆恨みするのは、
依存心を自分の中でぐるぐる回しているだけで
自分に毒が回るだけだ。
どんなに自分ひとりがんばっても、
大事に育ててきた子供が不届きなドライバーに
一瞬で跳ねられてしまうことがある。
他の誰にも替えられない大切な人が、
どこかの異常者に突然刺し殺されてしまう、
などということも、今の世の中、普通にある。
家族や友人の誰かが、
生きるか死ぬか五分五分だ、という状況になることも
これからはどんどん起こり得る。
いつの時代も、
ヒトは自分の力ではどうにもならないことに対して、
不安を抱いて生きてきた。
今、この時代、
昔よりどんどん複雑になってきて、
大昔のように天気や病気や田畑の不作の不安だけでなく、
何百何千もの入り組んだ不安にまみれて生きている。
そんなときこそ、
祈りの習慣が必要なのではないか、と思うのだ。
願うのではない。
見返りは期待しない。
忙しい毎日の中で、ほんの数秒だけ、
ただ目を閉じて祈る。
数え切れない、意識的無意識的に
私たちを不安にすることがらから、
目を閉じて解き放たれる。
何も心に抱かない。
ただ心を白くして、祈る。
難しい状況や苦しい環境も、
その一瞬だけはゼロになる。
有頂天の心も、どん底の心も、
全部クリアになって、何もなくなる。
ただ目を閉じるだけだ。
それだけのことで、
絶望もゼロになり、希望へのベクトルの可能性を産む。
この世で怖いものなしだと天狗になっていても、
目を閉じてゼロになり、
自分がひとりのヒトであることに気付く。
忙しくて難しくて速くて厳しい時代だからこそ、
一日に何度か祈ろう。
不安にまみれて大切な人たちを傷つけたり、
不毛な小言を並べる前に、
ただ祈ろう。
叶わないかもしれない。
でも、祈った時点でもう、
不安な気持ちは少し解消されているはずだ。
不安な気持ちで生きていること自体が
私たちを不幸にする。
イラつかせる。
ただ祈るだけで不安が少しづつ拭えるのだとしたら、
ただ祈るだけで私たちは幸せになれる。
行動で何とかなることは行動する。
何とかならないことは、ただ祈る。
それが、真に合理的な生き方なのではないか、と
最近、静かに思っているのだ。
(了)
(しその草いきれ)2003.6.17. あかじそ作