しその草いきれ 「程度の差」
 
 多くの人は、貴重な休暇に、大金を払ってまで
自然へと向かおうとする。
 そこへ行けば
「ほっとする」
とか
「癒される」
とか
「ちっぽけな自分に気づく」
とか言う。
 
 要するに、
スカーンと広がった非人工的な環境に身を投じ、
時計を捨て、
人間関係のチマチマしたくっだらないしがらみを一瞬忘れ、
「ああ、生きてる〜」
となるわけだ。
 
 しかし、人間は、こんな風に
時間や労力や大金をはたかなくても、
実は日々生きているわけだ。
 それなのに、
「生きてる気がしな〜い」
と感じてしまうのは、
ヒトという動物の生活としては、
かなり劣悪な環境で暮らしているということになる。
 見えない鎖につながれて、
誰かに飼われているようなストレスをためている。 
 
 都会暮らしで、夫は地位も名誉もあり、
子供も私立の名門校に通い、
自分はマダムと呼ばれて、
金もあり、物もあり、ハイソな暮らしをしていても、
「生きてる気がしな〜い」
などと言っているのでは、
やっぱりそれは動物園の檻の中なのだ。
 「休日はアウトドアざますわ」
と、やっぱり自然環境を買いに出かけているとしたら、
彼女もまた、飼われているヒトのひとりなのだ。
 自分は自由だ、と思っているだけに問題は複雑だ。
 
 身近な人間がヨボヨボととしをとりまくり、
バタバタと倒れて寝込みまくり、
死にまくっているのを至近距離で見てきたら、
私は何だか世の中の悩みのほとんどが
「程度の差」についてなのではないか、と感じるようになってきた。
 
 ヒトは死ぬ。
 絶対に死ぬ。
 どんなに努力をしても、年老いて死ぬ。
 ちょっと気を抜けば事故死だってすぐ隣にある可能性だし、
運が悪ければ、全然関係ないヤツに殺されてしまったりする。
 
 それは、自分らより下等だとみなしている虫けらや家畜と
何が違うのだろう。
 まったく同じ条件の中で生きているではないか。
 ことばを持ち、経済を持ち、コミュニティーを持ち、
他の動物たちとは一線を画していると思っている私たちヒトも、
実は、全然万能なんかではない。
 私たちは、神ではなく、ヒトなのだ。
 一動物にすぎないのだ。
 
 こんな当たり前のことを、みんな忘れてしまう。
 
 金や物をどれだけ持っているか、ということは全然関係ない。
 貧乏人も大富豪も、宇宙的規模から見たり、
歴史的な展望から見たら、
ほんのチリほどの「程度の差」だ。
 
 「私はブスに生まれて不幸だわ」
 「ああ、俺は金が無くて不自由だ」
 「こんなひどい親から生まれてマイッタ」
 「なんて子を持ってしまったんだ」
 「うちの亭主は最悪だ」
 「あんな上司殺したる!」
 「となりの家庭がうらやましいわ、悔しいわ」
 
 それらも、みんなみんな、「程度の差」だったりする。
 
 私たちが頭を抱えているこれらの悩みたちが、
どれもただの「程度の差」だと思えば、
私たちは、どれだけ「生きてる気しな〜い」から
解放されるだろう。
 
 私たちは生きている。
 生きた心地がしないなあ、と思いながら、
でも、生きている。
 
 せっかく生きているんだから、
生きてる実感を持って生きたいものだ。
 せっかく出会った人たちだから、
愛し合って生きたいものだ。
 せっかく生まれた子供なんだから、
可愛いな、と思いながら育てたいものだ。
 
 せっかく生きているのに、
つまらない「程度の差」に心を縛られて
「生きてる気がしな〜い」毎日を過ごしていたら、
それは死んだも同然なのだ。
 
 死んだも同然のイマワノキワの病人が、
「ありがとう、みんな。私は幸せでした」
と、温かい涙を流したら、
それは健康な私たちより、よっぽど生きている。
 
 そんなものなのではないかしら?
 
              
                   (了
 
 
              (しその草いきれ)2003.7.2.あかじそ作