「猫夫」
 我が夫は、猫である。
 名前は「猫夫」という。

 出会った頃は人間で、人柄もよく、会話もできた。
 ところが、結婚し、子供が生まれてしばらくすると、
夫は話しかけても反応をしなくなった。
 どうやら人間のことばを解さなくなってしまったようだ。
 大切な相談ごとにも一切耳を貸さなくなってしまった。
 あまりの無反応ぶりに私が不機嫌になると、
夫は音もなくその場を離れ、
冬は陽だまりに、夏は涼しいところへと避難していく。

 面倒なことは決してしようとしないし、
人からやれと言われたことはしない。
 自分がしたいことをしたいときにしたいようにするだけだ。

 「まるで猫のようだ」
 私は、夫の日々の暮らしを見て思った。
 そう思いだすと、
「猫に家事や子守を頼んでも無理だ」
と腹をくくれるようになってきた。
 むしろ、猫なのに毎日会社に出勤して一日仕事をし、
稼ぎを家に入れるだけすばらしいではないか、
とさえ思えてきた。

 育児の大変さを嘆く私に耳を傾けず、
家庭に一切興味を示さない夫に対して、
私は、淋しさと怒りを感じ、さんざん夫を責めたが、
彼はどんどん私から離れていくばかりだった。
 
 そして、ついにまったく口もきかず、
目も合わさなくなって数年が過ぎた。
 子供も幼稚園に上がり、
私も仕事やボランティアに精を出して、
夫に関心もなくなった。

 夫にしばらく会わない日が続いても、
私たち母子は、何も支障がなかったし、
会っていないことすら気が付かないことも多かった。

 毎月銀行に振り込まれる給料も、
それが夫によってもたらされる収入だということを
ついつい忘れてしまうようになってきた。

 夫が家族から抜けたことに対して、
私たち母子はすっかり慣れてしまい、
明るい母子家庭生活を送っていたのだ。

 ところがある日、
我が家の居間に突然猫が入り込んできた。
 猫嫌いの私は、
躍起になって猫を部屋から追い出そうと
「シッシッシッ!」
と、新聞紙を振り回して猫を追い掛け回した。
 猫は、ひらりひらりと上手に逃げ回り、
タンスの上やエアコンの上を身軽に飛び移っては
憎たらしくこちらを見下ろし、
「ミャッ」
と鳴いた。

 一方、子供は猫の訪問に大喜びだった。
 不思議なことに、私がいくら手を差し出しても
決して寄ってこない猫が、
子供が「おいで」と呼びかけると、
どこにいてもするするっとやってきて、
子供の胸に飛び込み、穏やかな顔で丸まるのだ。

 子供のしつこい頼みに、ついに私は折れて、
その猫を飼うことになった。
 飼う、と言っても、
その猫は、我が家に居たり居なかったりで、
半同棲みたいなものだった。
 気ままな通い婚のようなその猫の行動に、
私はふと、夫のことを思い出した。

 そういえば、夫はどこでどうしているのだろう。
 ここ数ヶ月会っていない。
 口座には、いつもの日付けでいつもの額が入金されている。
 私たち母子の生活は、
夫が猫に替わっただけで、何も変わらなかった。
 
 子供の七五三のお祝いは、
猫を抱いて神社にお参りをし、
母と子と猫とで記念写真を撮った。
 運動会には、レジャーシートの上に
私と子供と猫が座り、お弁当を囲んだ。
 私と子供と猫。
 それは、完璧な家族として成立していた。
 幸せな暮らしがそこにあった。

 私は、気が付いていた。
 しかし、気づかぬ振りをしているだけだ。
 実は、この猫が本当は私の夫で子供の父親だということを。

 我が夫は猫である。
 名前は「猫夫」という。
 家庭は―――、至極うまくいっている。


                      (了)


(小さなお話)2003.7.7.あかじそ作