「 帰省リポート03夏 」

 2003年、8月12日〜15日。
 夫の故郷である石川県の金沢に帰省した。
 ここ数年、盆も正月も帰省を避けてきたのは、
夫の両親が家庭内別居をしているからだった。
 長男一家(私たちのことだ)が帰省してくる、
ということで、普段誰も集わない居間に
夫の両親や弟妹が集まるのだが、
彼らがどんなに明るく取り繕っても、
家の中の空気が重く、
息が詰まるような数日間を過ごさねばならなかった。
 
 夫の父は、まじめで朴訥な人だ。
 対外的には「穏やかないい人」だが、
家庭内では口をきかない人だった。
 そして、淡々と自分のペースで生活し、
家族が話しかけようものなら、
突然癇癪を起こし、テーブルを蹴ったりするらしい。
 嫁の私は「対外的な」彼しか
まだ見たことがなかったので、
義母がいつも彼のことを愚痴ると、
「あんなにいい人なのに贅沢な悩みだ」
と思っていたのだった。

 夫の母は、前から脳梗塞の気があったのだが、
この春、突然脳出血で倒れ、
一命は取り留めたものの、
後遺症で右手右足が言うことを聞かなくなり、
ことばもはっきり話せなくなってしまった。
 倒れてすぐに私たちが駆けつけようとしたら、
「みっともないところは絶対に見られたくない」
と義母は言い、
我々は今まで見舞いをずっと断られていた。
 が、孫たちにどうしても会いたい、
という気持ちには勝てなかったらしく、
義父の強い要望もあって、
私たちは久しぶりの帰省となったわけだ。

 私たち一家6人は、大宮から新幹線に乗り、
越後湯沢で特急はくたかに乗り換え、
金沢駅へと到着した。
 自宅を出てからほぼ4時間。
 指定席に座って来られたのと、
子供たちがぐずらなかったおかげで、
あっという間の旅だった。
 駅の改札で待つ義父は、
70代とは思えぬチワワのような可愛い顔で、
ニコニコと「ソトズラ・スマイル」を浮かべて待っていた。
 
 義父は、
 「だいぶ待ちましたか」
 「みなさん元気ですか」
 という私の問いには答えず、
「疲れたでしょう」
とだけ言って、さっさと前を歩いて駐車場を進んでいった。
 義父との会話はいつも一方通行で、
こちらの放つことばは、次の沈黙を産む種にもなった。
 常に同時に2〜3人が喋りまくっている、
という家庭に育った私には、
この「常時沈黙」という夫の育った家庭の息苦しさには、
何度来ても閉口してしまう。
 これも帰省を数年間避けてきた理由であった。

 が、これが義父にとっての
最大級のお愛想だということも
経験上知っているので、
あまり気にせず、夫の育った家へと向かった。

 私たちはまず、
2階の義母のところへ挨拶に行った。
 5月に倒れて以来、ずっと入院していたのだが、
私たちが帰省するのに合わせて、
外泊許可を取ったらしい。
 (つまり、帰省中は「介護一色」となるのか?)

 義母は、普段着でソファーに腰掛け、
ことばは、はっきりとは聞き取れないながらも、
普通に私たちのことばを聞き取り、ゆっくりと話す。
 子供たちは、
「おばあちゃん、思ったより元気で良かったよ!」
と義母を囲み、
林間学校の土産やら、
自分が描いたおばあちゃんの顔の絵を
義母のひざの上に山盛りになるくらいたくさん渡した。
 義母は、左手一本でそれらを大切そうに包み、
「ありあとう、ありあとう」
と言い、笑った。

 子供たちが階下の義父の部屋に行ってしまうと、
義母は突然涙を浮かべ、
私に何度も「すみません、すみません」と言った。
 義母は、お洒落な人で、
着るもののセンスもいいし、いつもきちっとしている。
 いかにも完璧主義で、いつも台所はピカピカだった。
 ところが、自分が倒れた時そのままになっているこの家は、
埃がそこここにくるくる舞い、散らかり放題だ。
 若くかっこよく孫たちの前では振舞いたいのに、
思うように話せず、動けずで、
なさけなさで泣くしかないようだった。

 義母は、病院のリハビリで歩く練習をしてはいたが、
トイレなどの移動は車椅子だった。
 しかし家では、
(義父の来ない)2階を生活の基盤としているため、
急で曲がりくねった階段を昇り降りしなければならなかった。
 義父は、
「下におればいいのに」
と言うが、義母もかなりの意地っ張りなので、
必死の形相で階段をよじ登ったり降りたりしていた。
 それに、階下には、90過ぎの姑がいる。
 嫁に来てからずっと、姑にはさんざんいじめられ、
やっと最近優位に立てるようになった、と言っていたから、
今の自分のよろよろした姿は絶対に見せたくないらしい。
 
 義母も意地っ張り、義父も意地っ張り、
そして、夫の弟妹は完全に義母寄りで、
やはり2階に入り浸りだった。
 私は、みんなが2階に行ったきり
降りてこなくなってしまった階下の一室で、
義父とふたりで無言でテレビを見ていた。
 私も2階に上がりたかったが、
義父に悪いな、と思い、
金縛りに遭ったようにそこに座っているしかなかった。
 義父は明らかにイラつき、
目はテレビを見ているものの、体は落ち着きなく揺れていた。
 そこへタイミング悪く90過ぎのおばあちゃんがよたよたと現れ、
「この目薬が・・・・・・」
と義父に聞いてきた。
 義父は、今まで私が聞いたこともないような荒っぽい声で、
「5分空けてふたつ!」
と怒鳴った。
 おばあちゃんの手元を見ると、
3種類の目薬の袋を持っている。
 義父の言うことがよくわからなかったらしく、
おばあちゃんは再び義父に近寄り、
「こっちの目薬が・・・・・・」
と言うと、心底イラ付いた様子で義父は、
「何度も言わすな! 5分空けてふたつ!」
と怒鳴った。
 そんなやり取りをしばらく見ていて、
私はいたたまれなくなり、
思わずおばあちゃんの元に駆け寄り、
目薬の袋を見ながら、ゆっくりと説明してあげた。

「この目薬を付けたら5分待って、
もう一種類の薬を付けるんですよ」
「え・・・・・・?」
「続けて付けると薬が混じっちゃうから、5分空けるの。
それから、こっちの赤い袋のは、夜だけね」
「あらあら、今までこっちを日に3回やっとったわ」
「じゃあ、今日から夜だけにしようね」

 見ていた義父は、ますますイライラして、
「ああ、そんな年寄り、ほっといてください」
と、私にも怒鳴った。

 3泊4日の間に、何度おばあちゃんは義父に怒鳴られ、
義母に無視されていただろう。
 おばあちゃんも若い頃、随分みんなに意地悪して、
相当嫌われちゃったんだな、とはわかってはいても、
若い人たちに邪険にされている姿は、
見ていられなかった。
 「それじゃあ、あなた、おばあちゃんを引き取ってよ」
と言われても、それは私にはできないだろう。
 ほんの数日、いい顔をするだけなら、簡単なのだ。
 
 私は、年金の手続きを手伝ったり、
おばあちゃんの昔話をずっと聞いたりしていたが、
どこか「おいしいとこ取り」をしているようで、
気がとがめたりもしていた。
 
 さて、ところで、
ご飯を用意する人が誰もいなかった。

 妹は、炊事洗濯はできるものの、
障害者ということもあり、仕事が異常に遅い。
 企業の障害者枠で働いていて、
普段は、仕事の後、
少量のお惣菜を買って帰ってくるようだった。

 突然の大家族の襲来と、半身不随の母の帰宅で、
妹のキャパはオーバーし、
食事のことなど頭にないらしかった。
 
 結局、初日の夕飯は、義父が寿司を買ってきた。
 みんな階下に降りてきて、
本当に数年ぶりに同じテーブルにつき、
大勢で食事をしたのだった。

 私たち一家が、
「わーい、寿司だ寿司だ」
と、おおはしゃぎなのと対照的に、
義父、義母、おばあちゃん、弟、妹の
どの顔にもまったく笑顔が無く、
大勢でいるのに怖いくらい「真顔」だった。

 そして、誰も何もしゃべらないのだった。

 子供たちが何かを話しかけると、
義父も義母も、いつもは笑顔で返事をするのに、
みんなで一緒になると、互いに完全に心を閉ざし、
まったく声も発しない。
 硬い表情で、
ただ、時が過ぎるのを息を止めて待っているようだった。 
 
 私は沈黙に耐えられず、
軽い話題を次々に繰り出してみたが、
それらはすべて黙殺され、却下された。

 この家族にも、かつて楽しい時間はあっただろう。
 最初からこんな風に陰気な意地の張り合いでもあるまい。
 心を閉ざして暮らさないと、
耐えられないような状況があるのだろう。

 きまじめな義父と義母。
 互いに決して妥協しない主義だ。
 ひとりひとりは社会的に立派に通用しているが、
相容れないふたりには、
「自分たちのオリジナルの社会」―――「家庭」
というものが、築けなかったのだろう。

 この家庭は完全に形骸化しているのだ。

 かくして私たち一家は、
ガイコツと化した家庭で3泊4日を過ごし、
その骨と骨との間をジャングルジムのように
軽やかに昇ったり降りたり、飛び移ったりしながら、
案外楽しんでいた。

 夫の弟は、気合の入ったパンク青年で、
地元では有名なパンクバンドのドラマーだ。
 その彼が、体じゅうに金属のいぼいぼを装着し、
夏だというのに真っ黒の服装に長髪という風貌で、
墓参りや金沢の名所旧跡を案内するのが
怪しくもあり楽しくもあり、
家の中での沈黙無表情地獄から
私たち一家を救い出してくれた。

 こうなったら、この独特の世界を楽しもう、と、
私も開き直り、
夕飯にカレーを作ってふるまったり、
ホームセンターで材料を調達してきて
階段に手すりを付けてあげたりと、
私ワールドを展開していくことにした。

 義父には、
「おばあちゃんに優しくしてあげてくださいね」
などとえらそうに説教など垂れたり、
「泣いてばかりいないで、笑って笑って!」
と、義母を強引に励まし、
「またすぐ来るからね〜〜〜!」
と、演歌歌手の凱旋コンサートみたいなノリで
ぐいぐい押していった。
 彼らは、突如下町のおばちゃんと化した嫁に閉口しつつも、
「また来まっし」と言ってくれた。

 おばあちゃんは、
「よくしてもらったから」
と、子供たちへの小遣いの他に、
私個人にも小遣いをくれた。
 おばあちゃん、
恐らく、笑顔で人に接してもらったのは
久しぶりだったに違いない。


「また来まっし」
「また来まっし」

 行きましょう、行きましょう。
 生々しい魂のカタマリを何人も引き連れて、
その生気の無いみなさんの生活を、
またかき回しに参りましょう。

 あなたたちの可愛い孫たち(ひ孫たち)を連れて、
年がら年中うかがいましょう。
なぜか肉親にはできない優しい行動ができる、
肉親には言えない優しいことばを言える、
不思議な他人のあなたたちに会いに、
また、参りましょう。


                 (了)
(しその草いきれ) 2003.8.19 あかじそ作