「 和顔施(わがんせ 」

 お布施というと、寺や神社仏閣に対して
大金を包むというイメージがあるが、
実際、布施は金や物だけに限ったことではないという。

 ひとがイマワのキワでもできる布施―――
それは、「和顔施」。
 
 和顔施とは、和やかな顔をすること。
 和やかな顔をすることで、
まわりの者は救われる。

 金も物も、材料は何もいらない。
 ただ笑う。

 にっこり笑うことで
苦しんでいる人や悩んでいる人、
多くのものを喪失してしまった人たちの
心を救う和顔施。

 死に際ににっこり笑えば、
家族への感謝を伝えることができるし、
残された者たちに
温かい死生観をプレゼントできる。
 そして、自分がこの世を去ってしまうことによる
家族の喪失感をもやわらげることだろう。
 こんなにすばらしい布施が
他にあるだろうか。
 
 そういえば、
今まで私は何人もの和顔に救われてきたし、
非・和顔に締め付けられてきた。

 例えば、雰囲気のいい病院、
感じのいい看護士のいる病院の医師は、
たいてい和顔だ。
 逆に、具合の悪い病人たちに
ことばで鞭打つような看護士や
受付嬢のいる病院には、
必ずといっていいほど、
いやなヤローが大居張りでお医者様をしていやがる。

 私が思うに、
地位や名誉を築き上げて、
世のため人のためになる仕事をまっとうすれば、
同じ時代を生きる人たちに
大きな影響をあたえることができる。
 また、ノーベル賞をとるほどの人は、
科学や文学などにおいて
後世の人々を救い、未来を変えるだろう。
 でも、それ以外の大多数の人でも、
この時代、
そして未来へとつなげる偉業を成すことができるのだ。

 この「和顔施」を行うことによって。

 ひとりがほほ笑めば、
つられてほほ笑む者がいる。
 笑顔が笑顔を呼び、
温かい波動を周囲にふりまいていく。

 ピリピリした職場の潤滑油になり、
ギスギスした家族の太陽となり、
厳しい状況でも生きていく力を与えてくれる。

 そうなのだ。

 厳しい環境で厳しい顔をしていることは、
まるで芸が無いではないか。
 厳しい環境だからこそ、
和顔施で懐の深いところを見せていこうではないか。


 ところで最近、私は、
「自分という人間が、
世の中の金を回していくということに
不向きなタイプの人間なのではないか」
ということに気がついた。

「仕事をせねば」
「収入を得ねば」
と、いつもあせってばかりだが、
私はいつも山のような炊事洗濯
家事育児を年中無休でやっている。
 もろ、労働している。

 しかし、金がヒトカケラも動かないので
「仕事をしている」という気がしなかった。
 しかし、布施にも金の絡まない
「和顔施」というものがあるように、
「仕事」にも金や物が一切はさまらない
大事な仕事があるのではないか、と気付いたのだ。

 世の中の金をぐるぐる回して、
ガツガツと勝ち続けていく人たちばかりが
偉いと思っていたが、
実は、
毎日一銭にもならない仕事をしながら
どんなときでもにこにこ笑って、
キツイ事情の中でも平然と
楽しい人生を送っている人だって、
結構カッチョイイではないか、と―――。

 和顔を保つのは、正直大変なことだ。

 でも、私はあくまで
自分なりの大器を目指していくことにしよう。
 和顔和顔で
何が起きてもびくともしない人になり、
同じ時代を生きる同士たちや
息子たちやその嫁や、
孫やひ孫やヤシャゴにいたるまで、
和で攻めていこうと思う。
 それが私なりの
「世のため人のため」を実行をするための
ツールなのだ。



                           (了)

(しその草いきれ) 2003.9.29 あかじそ作