「 勉強 」

 二十歳代の頃の私は、
電池が切れて死にそうな状態だった。
 大学を卒業し、東京の下町で、
現在の夫とアパートを借りて同棲していたのだが
夫は仕事が続かず、
私の仕事の方も行き詰まっていた。

 私は、働きすぎで自律神経失調症をこじらせ、
軽いうつ状態になって神経科に通うことになり、
結局、仕事もやめてしまった。

 夫は何とか定職に就いたものの、
朝はいくら起こしても
「眠い」
と言ってなかなか起きず、
会社に連日遅刻していく始末だった。

 夫の母親から
「けじめをつけろ」
と突っつかれ、
私たちは何の覚悟もないまま結婚し、
なしくずしで結婚生活に突入したものの、
まだ精神状態の安定しない新妻と
労働意欲のない夫との新婚生活は、
決して楽しいものではなかった。

 私はその頃、心のリハビリのつもりで、
「サカナの夢」
という小説を書いてみた。

 生きていくのが
どうしようもなく面倒になってしまった主人公が、
あてもなく死に場所を探し、
最後は東京タワーに宙吊りになって
今までの自分を自殺させ、
次の自分に生まれ変わる、
という突飛な話だった。

 文学新人賞に投稿したものの、かすりもせず、
それでもひとつ書き上げた達成感で
私は少しづつ元気を取り戻していた。
 私は、小説の中で今までの自分を殺して、
新しい自分を自分で産んだ。
 しかし、後から考えれば、
これは青年期の心の発達の
ワンステップにすぎなかったのだ。

 私は自分の心を解明することで、
自分の悩みを軽くしようと思った。
 大学の通信教育部に入学し、
心理学を専攻した。
 送られてくるテキストと図書館の関連資料とを
連日連夜照らし合わせながら
哲学や教育学や統計学、
そして心理学の各科目のレポートを仕上げていった。
 レポートで合格したら、
各地で行われる筆記試験を受ける。
 各科目ごとに合格すれぱ、やっと履修したことになり、
普通の大学と比べたら何倍も勉強しなければならない。
 おまけに夏のスクーリングでは
大学に4週間ほど通い、
集中的に何科目も缶詰になって勉強する。
 私は欲張って「幼稚園教諭2種」の
資格も取得しようとしていたので、
余計に大変だった。

 気がつくと、私には子供が三人いた。
 子供を寝かしつけ、
夜中にむっくり布団から這い出して
深夜遅くまでレポートの作成を続けた。

 入学してから9年。

 私は、たくさんの科目を履修し、
あと少しで幼稚園教諭の資格も手に入るというところで
在学年限を超え、除籍となった。

 だが、私に挫折感はなかった。

 私の心は救われていたのだ。
 当初の目的は達成していた。

 私を救ったのは、知識だけではなかった。
 今まで、人によって苦しめられていたのだが、
今度は人によって救われた。

 私が勉強することに理解を示して、
家のことを手伝ってくれた夫。
 夫は、いろいろ落ち度もあるものの、
彼なりに一生懸命家族を養ってくれていた。
 それから、スクーリングの間、
アカンボを含めたたくさんの幼児を
何週間も預かってくれた両親。
 私の生育環境を聞いて、
よくがんばったね、と言ってくれたおじいちゃん先生。
 同じ目的を持って共にがんばる学友たち。
 みんな仕事と勉強を両立させていた。

 数年後、夫が転職。
 生後二週間の四男に乳をやりながら
夫の通う新しい会社が倒産したことを聞いても、
私はひるまなかった。
 
 人生はパズルと同じで、
もう一息で完成、と見えても、
また一度壊して組み立て直さなければならないときがある。
 振り出しに戻ってしまうような気がするけれど、
実は完成に近づいている、ということもあるのだ。

 私は幸い、
何度も崩したり組み立てたりを経験していたから、
動揺せずに事態を静かに受けとめることができた。

 「サラリーマン家庭」として
安定した完成図が見えていたが、
実はそれは私たちの完成図ではなかったのだ。
 実は、もっと困難の果てに
楽しげな波乱の人生が待っている。

 私はわくわくしながら
(実は不安でひどいめまいを起こしていたが)
次のステージに進もう、と夫に言った。
 何の保障もないが、
夫は根拠のない私の自信につられて
元気に次の仕事を始めた。

 根拠なんかなくたって、勘違いでもいいのだ。
 笑っていれば、なんとかなる。

 これが私の9年間の勉強の成果だ。
 (了)
(青春てやつぁ) 2003.11.18 あかじそ作