「 心理学なやつら 」

 青春時代の挫折を味わい、
そこから何とか立ち直ろうとして入った
大学の通信教育部で、
私は奇妙なやつらと出会った。

 私の専攻したのは、心理学だったのだが、
夏のスクーリングで出会った学友たちは、
そりゃあおかしな連中だったのだ。

 学友の年齢は、
ハタチくらいから五、六十歳代と幅広く、
中心となっているのは
二十代後半から三十歳代といったところか。
 それぞれ仕事を持っている。
 小学校の養護教諭をしているおばちゃんは、
保健室にやってくる悩みを抱えた子供たちに
箱庭療法などを用いて
本格的にカウンセリングを施したいから、
という理由で、
奈良からやってきてホテルに泊り込みで通っている。

 スクーリングは、ほぼ4週間。
 北海道から沖縄まで、
あらゆるところから集まってきている。
 地方在住の人たちは、
大抵、ウイークリーマンションなどを利用していた。

 養護のおばちゃんは、毎朝、
物凄くコテコテの関西弁で、
朝イチから私たち学友の心理分析をおっぱじめる。
 その日着てきた服を上から下までじろじろ見て、
「あんたは昨日悲しいことがあったはずや」
とか、
「なあ、自分。自分は淋しがり屋やな!」
とか、頼みもしないのに
ガンガンインチキな心理分析を繰り広げてくるのだ。
 私などは、夫の着古したアーミー柄のシャツを
借りて着ていった日、
「あんたは自分が女に生まれたことを後悔しているはずや」
と断定された。
 「いやあ、それはないですよ」
と反論すると、
「いや、自分、それは自覚がないだけや。
 ホントはあんた、男に生まれたかったんや。
悩んでるんやろ?」
と、見当違いの診断をした挙句、
勝手に相談に乗ろうとしてくる。

 この調子で保健室で児童たちに
攻めまくっているのだとしたら、
これは返って児童の精神衛生上
よろしくないような気がしてならない。

 また、理学療法士養成学校の助手をしているという
札幌の青年は、
「自分は都会人だ」
と豪語し、
「札幌は都会で、そのほかの北海道はド田舎だ」
「北海道北海道と言って、
札幌を他の地域と一緒にしないで欲しい」
などと常に口走っては、
札幌在住ということを声高に叫び、
首都圏の人に馬鹿にされないように必死なのであった。

 私たち心理学ゼミの顔ぶれは、
少々変わり者の集団ではあったが、
人を馬鹿にしたり差別したりするような人間はおらず、
そんなに頑張って虚勢を張らなくてもいいのだが、
あくまで「札幌だから!」を主張する彼に、
養護教諭のおばちゃんは、すかさず、
「あんたは出身地に強いコンプレックスを持っとるわけや」
とズバリ指摘し、彼を黙らせてしまった。

 「君のいる環境は上下関係がはっきりしているのだね」
とか、
「医学界では偉い人と偉くない人、
 という線引きをする風潮があるよね」
などと、他の学生たちも分析を始める始末だ。

 休み時間には、
たいてい誰かの生い立ちをみんなで根掘り葉掘り聞き出し、
また、その人も進んで自分の生育環境を熱く語り、
だから自分はこのような人間に育ち、苦しんでいる、
などと主張している。
 また、気質を環境によってどれだけ矯正できるか、
などを激しく語り合ったり、
職業による性格分類や地域別気質の違いなどを、
飽きることなく論じ合っているのだ。

 心理学オタクの集団。
 それも、ハンパでないハイテンションの。

 有休を全部使い、
働いた金を宿泊費と学費につぎ込んで、
何週間も泊りがけで心理学を学ぼうとしているのだから、
みんなよっぽどの変人―――いやいや、熱心な人たちなのだ。

 しかし、それにしても閉口したのは、
一部の「インド傾倒派」の人たちとの会話だった。
 彼らが言うには、
「心理学を学んでいると、
 みんなやがてはインドへと向かうだろう」
ということだった。
 彼らの挨拶と言えば、
「インド何回行った?」
なのだった。

「一度も行ってないよ」
と言えば、信じられない、という顔をされ、
「それではまだあなたには見えていないということですね」
と哀しそうにため息をつかれてしまうのだ。

 着ていく服や髪型をいちいち取りあげては、
「あなたの心は」
と、立ち入ったことをずけずけと追究してくるし、
「人間インド行ってなんぼよ」
と言われるし、
まったくおかしな人たちばかりだったが、
どの人もみんな基本的にいいやつで、
好奇心が幼児並みに激しいのだった。

 その中でも、私が非常に影響を受けた人がいた。

 大阪出身、東京在住の看護婦さんで、
年は三十歳代後半くらい。
 三人姉妹の末っ子で、両親を病気で早くに失い、
クリスチャン系の学校でエスカレーター式に
進学してきたが、突然
「やってられんわ」
と学校をやめて、看護婦になってしまった。

 その後、看護婦として優秀なところを認められ、
救急病院で生死の境にある人たちの看護を
第一線で続けてきたという。
 また、なぜか北極だか南極だかの調査の船に
専属看護婦として乗り込み、
何年も海の上で過ごしたともいう。
 まわりに何もない海ばかりの船の上で、
真夜中、海を覗き込んでいたら、
彼女はついふらふらと海に飛び込んでしまいそうになり、
そばにいた船員に押さえつけられて、何とか助かった。
 船員たちは、
「真夜中は絶対にひとりで海を覗き込むな」
ときつく彼女に言った。
 海は命を吸い寄せてしまうから、
という理由だった。

 そんな物凄い話を
昆布茶をすすりながらへらへら語る彼女は、
今は、近所の小さい病院で外来の看護婦をしている。
 病棟の看護は、やりがいがあるが、
あまりにもハードすぎる。
 自分は、夫との生活が一番大事だから、
仕事は軽く抑えている、と言うのだ。

 第一線の医療現場でも
バリバリに実力を発揮できる彼女が、
夫とののんびりした暮らしを優先する
生き方を選んでいる、ということが、
何の資格もない平凡な主婦の私には
物凄くかっこよく思えたのだ。

 しかし、子供が欲しいのになかなか授からない彼女は、
子供を三人も四人も育てながら大学に通う私を
とてもほめてくれて、
互いに自分の持っていない物を持っている人として
尊敬しあっていた。

 夏の真っ盛り、
連日あらゆるお国言葉が飛び交う中、
哲学やら教育学やら統計学、
発達心理学やら児童心理学、
臨床心理学に心理検査実習と、
ハードな授業が続いた。
 教諭志望の人たちには、
体育や音楽や図工なども追加されて、
盛りだくさんな内容だ。

 そして、夏も終わりに近づき、
またみんな全国に散っていく。
 全国のそこここで、その変人ぶりをいかんなく発揮し、
ひとの心についてやんややんやと騒いでいることだろう。


 ああ、それにしても思い出されるのは、
沖縄のひとたち。
 講義中に、あのこってりとした濃ゆいお顔立ちで
「相談にのるっさ〜」
と人懐っこく笑いかけてきて、
私の幼児時代の被虐待経験をするすると聞きだし、
休み時間に講堂で三線と太鼓を奏でて
大勢で踊ってくれたっけ。
 恥ずかしかったけど、癒えたなあ・・・・・・。


              (了)

 (こんなヤツがいた) 2003.11.18 あかじそ作