キリ番特典
鬼ばば母ちゃん 29000番
―――お題「怪我息子と母」―――
「 パーポー? 」

 やせっぽちで神経質で病弱で、
そのくせイットキたりともじっとしていない長男に、
一体今まで何百万の医療費をつぎ込んだだろう。

 生後3ヶ月のアトピー性皮膚炎から始まり、
生後6ヶ月で「尿路感染症」の入院。
 その際、腎臓の弁が逆流してしまう病気を疑われ、
生後7ヶ月の時、検査入院。
 その入院中に
「乳幼児突然死症候群」になる疑いがあると言われ、
常時心電図をとるための吸盤を貼り付けたまま二週間。
 結局異常は認められなかったが、
一歳半検診で「陰嚢水腫」と「小児ヘルニア」を
併発していることが発見され、3歳直前に手術入院。
 無事それらを乗りきったかと思えば、
幼稚園の頃、インフルエンザをこじらせて肺炎を起こし、
救急病院をたらい回しにされた挙句、命からがら入院。
 そのとき以来、喘息に移行。
 11歳の現在もまだ、気管支拡張剤を日に2回飲んで
やっと呼吸ができている、という人である。

 ちなみに彼は、一人っ子でも末っ子でもない。
 下に弟が3人もいる。
 と、言うことは、毎日の通院や入院中も、
母親は常に妊婦で乳幼児を数人連れている状態である。

 彼だけでなく、わが息子たち四人は、
今、列記した他にも
数え切れないほどの病気や怪我をしてきた。
 アカンボと病人だらけの毎日で、母親は
「大変だ」とか「つらい」とかの自覚をする暇もなく、
はっきり言ってノイローゼだった。

 したがって、一番大変だった時期の記憶が、
母にはまるでないのだった。
 というか、あまりにもハードすぎて、
脳がそれらの記憶を「衣装ケース」に入れて 
押入れの奥に突っ込んで取り出せなくしてしまったのだ。

 それでも、あまりにも強烈で
しまい損ねてしまった記憶がいくつかある。

 ひとつは、腎臓の検査のことだ。

 長男はまだ生後7ヶ月で、
病院のベッドの柵につかまって、
初めてのつかまり立ちをした。
 「記念すべき瞬間に立ち会えたわ」と
同室に入院している子どもたちのお母さん数人と
和気あいあいとしていたそのとき、
突然看護婦さんが
「それでは検査に行きます」
と言って、あわただしく長男を連れて行ってしまった。

 私はアカンボを取り上げられたまま、
しばらくあっけに取られていたが、
すぐに気を取り直し、検査室の廊下までついて行った。

 小さな担架に乗せられて
アカンボは検査室に入った。
 廊下で手術着の医師ふたり(男性と女性)が
私に検査の説明をした。
 
「おチンチンの先から細いチューブを挿し込んで
バリウムを注入します。
 で、エックス線で腎臓に逆流がないか調べます」

 あんな小さなアカンボの
あんな小さなチンチンの先に
チューブを挿す・・・・・・

 私は背筋が凍ったが、
医師たちは淡々と検査室に入っていった。

 その数分後、
「キーーーーーーーーーーーッ」
というアカンボの悲鳴が聞こえてきた。
 思わず耳を覆いたくなるような声だった。
 その悲鳴は明らかにわが子の悲鳴だ。

 私の頭の中では、車に踏み潰されて
パチンと音を立てて割れるカエルの絵が浮かんだ。

 そして、理屈ではなく、
生理的で本能的な危機感が私を襲い、
思わず耳をふさいで泣いてしまった。

 検査は、アカンボが暴れてうまくいかないらしく、
説明された時間をゆうに越えていた。
 いつまでも聞くに耐えないアカンボの悲鳴が断続的に続き、
男の医師の
「ごめんなごめんな、痛いよね痛いよね」
という声が聞こえた。
 そしてまた、若い女の医師の
「もっとちゃんと押さえてくださいよ」
「もっと深く挿した方がいいですよね」
というクールな声も聞こえてくる。

 それがしぱらく続いた後、検査室のドアが開き、
担架の上に乗せられたアカンボが出てきた。
 私の子だ。
 目をギョッとひんむき、全身ブルブル震え、
心底怯えた顔で固まっていた。
 オムツはいい加減に留められていて、
ベビー服もおしっこか検査液なのか、びしょ濡れだった。
 この凍りついた表情のアカンボが、
さっきまで初めてのつかまり立ちでにこにこしていた
私の子なのだ。

 私が検査室の前で
地獄の時を過ごしている間、
なぜか見知らぬおじいさんに手を握られていた。
 夫はこういうとき、いつもいない。
 仕事なのだ。
 通りがかりのよぼよぼのじいさんに励まされて
私は何とか頭が変にならずに済んだ。

 結局長男に腎臓の異常はなかったのだが、
それから数年間、
彼は夜驚症で毎晩夜通し悲鳴を上げ続けた。


 さて、もうひとつ忘れられないのが、
長男が救急車に乗ったときのことだ。

 9年前、日本中が異常気象で猛暑の夏だった。
 連日連夜気温は40度を超え、
6月に生まれたばかりの次男と
2歳になったばかりの長男を灼熱の密室で育てていた。
 クーラーをつけても一向に部屋は冷えることなく、
外に一歩でも出たら大人も子どもも
脱水症になってしまうほどだった。

 そんな夏の夕方、
布オムツと短いベビー肌着だけを身につけた
生まれたての次男を布団の上に寝かせ、
まだ産褥期の私はパジャマで添い寝していた。
 添い寝とは言っても、
暑いし、長男はキーキー叫んでいるしで、
全然睡眠などとれるはずもなかった。

 長男が暑さと、
かまって欲しさでキーキー暴れるので、
私が立ち上がって抱き上げようとすると、
何を思ったか長男は私に向かって突進してきた。
 長男が私にぶつかるのと同時に
私が立ち上がろうとひざを立てたので、
私のひざは長男のみぞおちにはまり、
彼はウッ、となったまま転がった。
 そして、次の瞬間、絶叫した。
 それから何分も何分も、絶叫は続いた。
 そのすさまじい泣き声につられて
うまれたての次男も号泣を始めた。
 私は重度の寝不足も重なって大混乱し、
「内臓破裂かも!」
と慌てまくり、
意を決して救急車を呼んだ。

 救急隊がすぐに来て、
私は長男を、救急隊のひとりが次男を抱いて
救急車に乗りこんだ。

 救急車に初めて乗った長男は
車が走り出して「ピーポーピーポー」と鳴り出すと、
突然泣くのをやめ、
「パーポー?」
と目を輝かせた。
 長男はその頃ちょうど、
「はたらくくるま」という音が出る絵本に夢中だった。

 大好きなはたらくくるまのリアルワールドに
彼は嬉々として目を輝かせ、
「おかーたん? パーポー? パーポー?!」
と、飛び上がらんばかりのはしゃぎようだった。

 それを見ていた救急隊は、
「ただの夕方のぐずりだったんじゃないの」
と苦笑した。
 私はあせって
「痛いの? 今はどこが痛いの?」
と必死で長男の腹をさすったが、
母の心子知らずで、長男は
「どこもいたくなーい」
などとほざく。

 長男の声をさえぎるように、私は必死で
「そうか、ちょっと治ってきたのか、そうかそうかー」
と必死に言ったが、
救急隊はにやにやするばかりだった。

 そして、搬送先の医者にも何でもないと診断され、
ほっとした後、私はどうやって家に帰ろうかと
呆然となってしまった。
 ここは来たこともないような
遠い町の知らない病院だ。
 そして、私の前には、2歳の長男と、
うまれたてのぐにゃぐにゃなアカンボ。

 呆然としている私に看護婦さんが、
「ご家族に迎えに来てもらえば?」
と言うが、当時、実家の両親は遠くに住んでいたし、
夫は都心の事務所に勤めていて
すぐには来られない。

 仕方なくタクシーを呼んだが、
長男の靴を持ってくるのを忘れていたため、
私はひとりで
長男と、まだ首の据わっていない次男を両手に抱いて
タクシーに乗り込んだ。
 ちょっと想像していただけるとわかると思うが、
首の据わらないアカンボと、2歳児を同時に抱くのが
どんなに難しい技か・・・・・・。
 私は使ったこともない筋肉を使って
見たこともないような体位でふたりの子を抱いたのだ。
 同年代のドライバーに事情を話すと、
親身になって同情してくれて、
当時住んでいた団地の3階の部屋の前まで
子どもを抱いて一緒に上がってくれた。

 私はただただ半べそでぺこぺこと頭を下げるしかなかった。

 玄関を開けると、
両親がそこに居て、同時に立ち上がった。
 救急車に乗る前に実家に電話してあったのだ。

 大事がなかったことを告げると、
ふたりはゲラゲラ笑って、
全身汗びっしょりの私に
ねぎらいのことばをかけてくれた。
 そうだ。
 もう夜なのに、今とても暑いのだ。
 部屋の温度計は40度を超えていた。

 私はずっと冷たい汗を流していたので
暑さを忘れていた。
 夕飯も食べていなかったし、
水の一滴も飲んでいなかった。

 カッチンカッチンに張ったおっぱいを
次男に吸い取ってもらいながら、 
私はめまいを起こしていた。

 お菓子をもらってご機嫌な長男は、
「パーポー乗ったの!」
と、得意げにじじばばに報告している。


 ああ・・・・・・
 そのときも夫はいなかった。

 母は強し、とよく言われるけれど、
最初から強いわけではないのだ。
 子を愛する必死さが、
そして、父の不在が、
母を嫌がおうにも強くする。

 母は強くなる。
 子は育つ。

 父よ、仲間に入りたかったら、
勝手に後からついてくるがいいわっ!

   
                   (了)

   (子だくさん) 2003.12.9 あかじそ作