まぬえらさん no.29400 キリ番特典
お題[捨てちゃうぞおおおお]
話の駄菓子屋 「2003年に捨てたもの」
2003年もあと2日で終わる。
今年はいろいろと心の重い年だった。
松の内から親しい伯父が急死し、
その一週間後に母方の祖母がつらい延命治療の末に
亡くなった。
そして、その悲しみも癒えぬ数ヵ月後の四月、
今度は父方の祖母が亡くなったのだ。
どの人も、私にとっては特別な人たちだった。
そして、どの人も、少しづつ私に似ていた。
死に顔をまじまじと見て、ああ、私に似ていると思い、
みんな綺麗な顔だったことに、私は少し安心していた。
人はみないつかは死ぬのだけれど、
こう血の近い人たちが立て続けに三人も亡くなってしまうと、
自分の命も風前の灯のように思えてならなかった。
理屈では人の死を認めてはいるものの、
胸の中の湿り気は、いつまでも乾かなかった。
それは、いつも気丈な私の母にしても同じことらしく、
常に丈夫で明るく、さばさばしていた私の母が、
今年はずっと高血圧で家にひきこもってしまった。
いろいろな形で外へ誘い出そうとしてみたが、
「頭が痛い」と言って
まるで部屋の外へは出ようとはしなかったのだ。
大切な人を失った喪失感に加えて、
「絶対的な安定」と信じる母が
実は非常に不安定な存在なのだと思い知り、
私の浮かない心は更に浮き上がることができなくなっていた。
しかし、不思議なもので、
毎日、朝晩亡くなった人たちの顔を思い浮かべ、
線香をあげ、話しかけたり
悩みを打ち明けたり、
「弱い私を守ってください」と甘えてみたりしているうちに、
秋にはすっかり立ち直っていた。
大きな喪失感を乗り越えたと共に、
まるでそのオマケのように
私は「未練」というものをなぜか捨てることができた。
自分に関する未練のようなもの
―――物欲とか、出世欲とか、愛を乞う、とか、
そういうひどく個人的でむなしいもの―――
を、綺麗サッパリ捨て去ってしまった気がする。
死んで会えなくなることがむなしいのではない。
「自分! 自分!」と主張して、
生きながらにして人が離れていってしまうことこそが
むなしいのだ。
「欲しい! 欲しい!」と大騒ぎして、
今持っているものに気付けないことがむなしいのだ。
私は捨てた。
そういうむなしい未練や依存や欲望を。
そして、新しい気持ちで2004年からを過ごすことにした。
荷を降ろして、私の心は軽い。
大きな悲しみと引き換えに
私は身軽に生まれ変わった。
ただ生きる。
ただ生きる。
ただ、ただ、生きる。
いろいろと捨てちまった後は、
そういう簡単な人生が待っているのだ。
簡単で、豊かな生活が、
待っているのだ。
(了)
(話の駄菓子屋)2003.12.30.あかじそ作