「おまえを嫁にもらう前に」 


単なる私信のような文章です。
でも、これが、私流のhanaへのハナムケの言葉であります。
hanaと私の絆の原点を見出していただければ幸いです。


 「祝辞」―――みんなのhanaへ―――

 hana、結婚おめでとう。11月22日(「ふうふ」の日)に入籍とのこと、
「んなベタな・・・」
と、軽く突っ込みを入れつつ、身をもって笑わせてくれるご夫妻に、
尊敬の念を抱かざるを得ません。
 結婚10年目の、少しばかりの先輩として、また、
(イトコだけど)姉妹として育てられた者として、
今日は、お祝いの言葉を述べたいと思います。
 
 今からおよそ29年前、5歳の私と、1歳の弟のところに、
一人のまん丸な赤ん坊がやってきました。
その赤ん坊のお母さんは、お勤めがあるので、
私の母が預かることになったそうです。
 ミルクの缶と、大量の真っ白三角オシメとともに、
そのまん丸は毎朝やってきました。
そして、私達は3人兄弟のように育てられたのです。
 まん丸の両親がそれぞれ会社から帰ってきて、
みんなでいっしょに夕飯を食べ、
一息つくと、まん丸は両親に抱かれてどこかへつれて行かれました。
 その時の「私だけ何故に?」という、
まん丸の無念の表情。
この子はきっと、私達を本当の兄弟姉妹だと信じていたのでしょう。
 うちの母を、私達同様「ママ」と呼んでいました。
まん丸のお母さんは、
「こっちが本当のママよ」と、必死に言い、
みな、笑っていましたが、
彼女にとっては笑えないことだっただろう、と、
今の私には、よくわかります。
 弟とまん丸は、「年子」ということもあり、とても仲が良く、
いつも二人で頬寄せ合って
ちまちまと遊んでいました。
私が学校から帰って、ランドセルを降ろすと、
その睦まじい後姿に、
「この二人こそ兄弟で、私の方が(ちがう)のでは・・・・・・」
と、たじろいだものですが、
パッと一斉に振り返り、
「オネエチャ―ン!!」
と、寄ってこられると、本当にホッとしたものです。
ホッとしたついでに、その日、学校で流行ったギャグを
「オヨヨ〜(・o・)」
などと、激しいアクションとともに披露し、
二人を笑わせたものでした。
 
 ある時、突然、まん丸が遠いところに引っ越して行くことを、
両親から聞きました。
3人でひとかたまりだった私達が、
ばらばらになったのです。
「引き剥がされた兄弟」とまでは言いませんが、
私達兄弟にとって、その前後の記憶がほとんどないのは、
やはり、あまりにもつらい出来事だったのでしょう。
 「喪失感」なんて言葉は知りません。
ただ、小さな私達は,
静かにその頃の記憶を無くしてしまいました。

 それからあの小さなまん丸に何が起こり、
どんな風に成長していったのか、
私にはわかりません。
私の方も「青春」に忙しかったのです。
 ただ、風の便りに、
まん丸をとても可愛がっていたお父さんが家を出て、
その後、まん丸は、
ストレスで一部の記憶を失ってしまった、と聞きました。
 まん丸のお母さんからの電話を受けて、
まん丸は私のうちに帰って来ました。
捨てられた子猫の様に怯え、
小さく震えるまん丸は、
やせっぽちの少女になっていました。
私はその時、大学の卒業シーズンで暇だったので、
毎日、ずっといっしょに過ごしましたね。
 大学の演劇部に連日連れて行き、
人見知りで縮こまるまん丸を、
怪しげな劇団員の中に投げ入れてしまいました。
 それからまん丸は、私を差し置いて芝居三昧。
みるみる元気になってしまいましたね。
 その後、まん丸のお父さんが亡くなったり、
親戚のごたごたに巻き込まれてしまったり、
まん丸の人生は、前半戦、波瀾続きでした。
 一生分の苦労を10年間で消化してしまいました。
 あとは、楽しいことがいっぱい、目白押しですよ。
もしも、また、なにかアクシデントがあったとしても、
もう、まん丸は一人じゃない。
 横に彼がいます。
そして、私もいる。
まん丸が自分で作り上げた、
たくさんの友情もあります。
 少女時代に人生のビッグウェイブを乗り越えてしまった、
タフなサーファーガールです。
彼にとっても頼り甲斐のある存在だと思います。
 どうぞ、生き生きと生きてください。
こてっと死んじゃうその日まで、
泣いて笑って、
怒って落ち込んで、
立ち直って、立ち上がって、
また、笑って生きましょう。
 「オネエチャン」も、おんなじ空の下で、
なんとかやっていますから。

追伸
 私のパソコンの横には、いつも1枚の写真が飾ってあります。
 10歳の私と、5歳のまん丸.が、肩を組んで不敵に笑っています。
 まん丸のお父さんが撮ってくれたものです。

2000.11.24.