「 今どのへんを歩いてる 」

 私は今、どのへんを歩いているのだろうかと
考えるときがある。
 自分の一生の、どのあたりまで進んだのか。
 世の中全体の、どのあたりを担当しているのか。

 自分と世の中との座標軸の真ん中で
ふと立ち止まり、爪先立ちであたりを見回してみる。


 子供の頃、
母が庭で洗濯物を干しながら
「私ホントは学校の先生になりたかったのよ」
と言ったの聞いて、
知らないうちに教師を目指していた。

 しかし、ふと気付くと霧の中に居て、道に迷っていた。
 組織の中で
自分ひとりだけ違う種類の人間のように思え、 
私は私を直そうとして病気になった。
 やたらと歩き、つまづいては倒れ、
原稿用紙に文字を叩きつけて
やっと正気を保っていた。

 闇の中を長くさまよい、書くこともできなくなって、
目も見えないまま、ただ歩いていると、
ある晩すっと月の光がさして、自分を照らした。

 私は小さな子どもを何人も抱え、
ボロボロになって歩いていた。
 照らされて初めて、
子がいることに気がついた。
 私は母なのか―――。

 書いて書いて書いて書いて、
夢中になって書きなぐった。
 自分に厚くかぶさっていた埃を払うように
ただひたすら書いた。

 立ち止まり、あたりを見回す。
 自分の手を見る。足を見る。

 子供の頃自分が行くと思っていたあの場所は遥か遠く、
一生関係ないと思っていた場所に立っている。

 いつもいつも危なっかしくて、
ろくに一人で歩けない子供だったのに、
今、私は体じゅうに子供を貼り付けて
大魔神のようにのしのしと歩いている。

 私も夫もサラリーマン家庭に育ったため、
一生会社が金をくれると信じていたが、
今、私の夫は自営業で、体ひとつで家族を食わせている。
 少し前の自分たちが見たら、これはもう、SFに近いことなのだ。

 総武線が日本海の脇を
波しぶきを浴びながら走っているくらい
予想もしなかった展開なのだ。


 今、どこにいるのか。
 社会の中で大きな波にさらわれながらも
何とかここまで生きてきたけれど、
果たして私は自分の人生のすごろくでは
どのへんまで来たのか。

 もう二度と戻りたくない昨日と
肉体が滅びていく明日との間で、
今、立ち止まって見回してみる。

 今日と、明日と、その次あたりまでなら
かなり元気に走れる気がする。
 すっ転んで、ぶっ倒れて、グエッと死んでしまうまで、
まだ間がある。

 小学校の地図帳でしか見たことがなかった
見知らぬこの土地で、
子を育て、親を看取り、日々生きていく。

 また明日どこでどうなって、
思いもしない場所にいるかもしれないが、
この座標の中で堂々と前を向いて明るく生きよう。

 確かに不安な毎日だが、
 この座標もまた、
大きな宇宙の中の小さなひとつの綿ぼこリにすぎないのだ。

 覚悟を決めよう。


   (しその草いきれ) 2004.3.9. あかじそ作