「 綿の神様 」 |
「自分って、こんな人なんじゃないかな」 という自己イメージと、 実際の自分とのギャップに、 すばやく気付いて早めに軌道修正できた人は、 肩の力を抜いて 楽しく自分らしい生き方をできるだろう。 一方、自分のキャラを自覚できず、 いつまでも「自己イメージ」に沿って頑張っていると、 物凄くしんどい生き方になると思う。 私は、ずばり後者で、 今まで自分は 「けっこう活発」で「キャリアウーマン型」 だと思い込んでいた。 ところが、実際は、 人が集まる場所では、ひどくテンパッてしまうし、 出不精だし、 家の中で裁縫や読書をしているときが 一番幸せだったりする。 経済的な理由でずっと仕事もしていたが、 仕事先で「頑張りやのいい人」を必死に演じて 疲れ果ててしまう自分が居た。 それでもしつこく 「自分は活発で仕事のできる女」 だと信じていた。 ところが、今、とりかかっている 140cm×200cmのハワイアンキルトを縫っていると、 頭が真っ白になり、 まるでカウンセリングでも受けているかのように 自分の気持ちや願い、 自分とはどういう者なのか、 どう生きるべきなのか、 ということが、 綿のぬくもりの中にふんわりと浮かんでくるのだ。 ただただひたすら、ちくちくちくちくと 手縫いしている日々は、 例えば写経のような境地に私を導き、 ゆっくりとした静かな時間の中で 迷いを解き、不安をぬぐってくれるのだ。 ひたすら続く単純作業の中で 私は一種のトランス状態になり、 綿の神様と話している。 (私は一体誰なんでしょう?) ―――それは、これから生きていく中で、 あなたが自分で決めていけるんですよ。 (何だか息苦しいんです) ―――息のしやすいところへ出なさい。 (いろんなことが心配なんです) ―――心配の内容よりも、 「心配すること」に疲れているんでしょう。 (私はどうしたらいいのでしょう?) ―――行きたい方に行きなさい。 自問自答とはちと違う。 自分の考えとはまるで違うことを 綿が言ってくるから不思議なのだ。 自分は、おそらく、 半端じゃなくマイペースな人間なのだ。 そのくせ、 人のペースにすぐ波長を乱されてしまう、 弱いところもある。 人にもまれ、競争しながら 大金を動かす仕事は向かない。 人に頼まれた「ツカイッパシリ」のような仕事は、 簡単だけど大嫌い。 自分の好きな分野に関しては、 手間隙をいとわない。 儲からなくても「自分の仕事」がしたい。 要は、人に使われるのはイヤ。 「有償パシリ」なら、金払ってでも断りたい。 そういえば子供の頃、 「委員会活動」が大っ嫌いだった。 放送委員や図書委員など、 使命に燃えている人をよく見かけたが、 彼らは、今ではキャリア組だろう。 私は、興味のない「人の仕事」を 遅くまで残って話し合ったり作業したりするのは、 はっきり言って面倒臭くてかなわなかった。 一刻も早く家に帰って、 いつもの公園に一番乗りし、 小さな子のブランコをこいであげたり、 本の続きを読んだり、 マンガを描いたり、 趣味のお菓子作りなどをしたかった。 今でもきっと、 私のそのキャラは変わっていないはずだ。 活発でもなければ、キャリアウーマンでもなく、 それでいて、世話好きで人好きで、 趣味の世界に一直線なのだ。 そういうキャラを踏まえた上で、 これからの仕事や生き方を 決めればいいんじゃないか? 綿の神様は言う。 自分の大切なものを知れ、と。 そして、そのことに忠実に生きよ、と。 世の中の基準はただの基準であって、 「こうなれ」という型枠ではないのだから、 自分らしさの中で頑張ればいいんだ、と。 もう自分の頭の中だけでは処理しきれなくなっている大量の情報と、 猜疑心と、不安と、世の中の速さに、 振り回されて失っているのは 「自分らしさ」だ、と。 不思議なことに、 「自分らしさ」に気付くと、 気持ちに余裕が出てきて、 相手の身になって考えられるようにもなる、と。 そして、そのうち、 「自分が」「自分が」と言わなくなる、と。 綿の神様、ありがとう。 でも、あなたは一体、どこにいるんでしょう? (了) |
(話の駄菓子屋) 2004.10.5 あかじそ作 |