「 Tの言霊 」

 幼い頃、私は下の名前で
「○○ちゃん」と呼ばれていた。
 親もまわりの大人もみんな
「○○ちゃん」と呼んでいたので、
自分でも自分のことを
「○○ちゃん」と呼んでいた。

 そのうち、学校に入り、
友だちや先生に
「自分のことをチャン付けで呼ぶのは可笑しいよ」
と指摘され、
しかし、いきなり「わたし」と言うのも恥ずかしく、
「ウチ・・・・・・」
と言っていた。
 するとまた、
「関西でもないのに『ウチ』は変だよ」
と先生に叱られ、
小3でやっと「アタシ」と言い始めた。

 当時、私は、自分が女であることに
照れを感じていたこともあり、
まだ「わたし」とは言えなかったのだ。

 弟が生まれ、
いとこのhanaが我が家で育てられることになり、
私は家族に「お姉ちゃん」と呼ばれるようになった。
 私は、家族の前では
自分を「お姉ちゃん」と呼ぶようになり、
同時に自分を「お姉ちゃん」的人間として
生きていくように作り上げていった。

 その頃には、自分の呼び方で
いちいち先生や友だちに
注意されることが面倒になり、
学校では、ちゃんと「私」と呼ぶことにした。

 学校では、「私」、
家では「お姉ちゃん」、
そして、今は、子供たちの前では
「お母さん」と呼んでいる。

 相手に合わせて
自分の呼び方を無意識に変えているので、
友だちと親兄弟と子供がみんな同席しているとき、
私は、非常に困る。

 キャラがそれぞれ違うのだ。

 自分を「私」と呼ぶ私は、
思いやり深く、思慮深く、とてもいい人だ。
 しかし、自分を「お姉ちゃん」と呼ぶ私は、
いつも厳しく冷静に
物事をチェックしていたかと思うと、
いきなり甘えてグダグダになる。
 また、自分を「お母さん」と呼ぶ私は、
常に「あれしろこれしろ」と口うるさい。

 友だちの前で自分を「お母さん」と呼んで、
命令口調で威張っていたり、
親兄弟の前で自分を「私」と呼んで、
優しさ全開だったり、
子供たちの前で自分を「お姉ちゃん」と呼んで、
グダグダに甘えてるのを
それぞれ見られることに非常に戸惑った。

 そのキャラたちは、みんな私ではあるが、
それぞれ違うキャラであり、
絶対同時には現れないはずなのだ。
 友だちと親兄弟と子供たちが
同じ席に居合わせ、
あちこちの人から話を振られたとき、
私は瞬時に優しくなったり、キツくなったり、
また、急に説教臭くなったりする。

 その様子はほとんど多重人格者で、
自分でも訳が分からなくなり、
友だちに「だから言ったでしょ!」と叱ったり、
親に「そのまんまのあなたでいいのよ」と微笑んだり、
子供たちに「お姉ちゃんも〜!」と甘えたりして、
気味悪い人格となってしまう。

 英語なら、ただ”T”で済むのに、
悲しいかな日本語は非常にバラエティに富んでいる。
 シーンによって「私」をいろいろ使い分け、
キャラを変えることができる。
だからこそ、
私はそれぞれの「”T”の言霊」に翻弄され、
こっぱずかしいやら、気まずいやら、
本当に困ってしまうのだ。

 ところで、私には、
もうひとりの人格が居た。
 自分を「アタシ」と呼び、
気分屋でワガママでヒステリーな人格だ。

 その人格は、
この世で唯一、夫の前で現れ、
ドラゴンのように猛り狂い、
また、侍のように夫を斬る。

 友だちと親兄弟と子供たちと、
それから更にその場に夫が居たら、
私は、もう、確実に壊れるだろう。

 自分の結婚式のときなど、
完全に頭が真っ白だった。
 親・兄弟、友だち、親戚、上司、同僚、
みんなちがう私を見せてきている。
 もっと言えば、子供の頃の友だちと
大学時代の友だちにも、
私は違うキャラで接してきた。
 いつもいつでも、その場その場で、
自分の果たすべき役割を敏感に察知し、
その役を完璧に演じきってきただけに、
そのときの私の混乱は半端じゃなかった。
 文金高島田がドカンと乗った頭の中は、
完全に無重力空間だった。

 写真には、どれも、
壊れた笑顔が写っている。
 その横で、
「誰に対してもまったく同じ態度」の
夫が、皇太子のような表情で写っているのだ。

 いいなあ。
 上司の前でも親の前でも
友達の前でも妻の前でも
子供の前でも仕事相手の前でも、
まったく同じ態度で
まったく同じキャラの「私」しか持たぬ夫は!

 そういう人に、私はなりたいなあ!
                   
                          (了)
(話の駄菓子屋) 2004.11.30. あかじそ作