みしゃさん NO.64100 キリ番特典 お題 「7、8ヶ月頃の息子たち」 |
「 10年日記ダイジェスト 」 |
1994年から2003年まで、 私は10年日記をつけていた。 書き始めの頃は、 私27歳、夫31歳、長男1歳、次男は胎児であり、 三男、四男は、影も形も無かった。 1994年1月1日 「実父の車で空港まで送ってもらう。 今日は夫のふるさと金沢に帰省します」 という書き出しで始まり、 1月2日 「うちの子は、犬も猫も『ワンワン』と言う」 1月3日 「飛行機で帰宅。子連れ帰省は、疲れるなあ」 などと、善良な感じで始まっている。 ところが、5月に入り、二人目の臨月になると、 5月13日 「家に泊まりにきてくれている実母が、 『早く産みなさいよ』と連日詰め寄ってくる」 5月14日 「『とっとと産めよ!』と、 母に階段から突き落とされそうになる」 と、だんだん穏やかでなくなってくる。 5月20日 「不細工な生き物が出てきた」 という言葉で次男は、迎えられた。 それからまるまる1年半、日記は空白だ。 書けるわけがない。 次男は、朝から晩まで 「母親が」 「右肩に」 「立て抱きで」 「お尻をトントンたたき、」 「おしっこは一滴でもチビッたらおむつ交換」 という条件を、ひとつでも外そうものなら、 狂ったように泣き、暴れるので、 当時団地住まいで 近所迷惑を苦慮した我が家では、 私が、朝5時から夕方5時まで、 1年間座ることも許されず、 フラフラになりながら立ってあやしていた。 長男は、まだ2歳になりたてで、 抱っこ抱っことまとわり付くが、 次男のこだわりに付き合うだけでやっとだった私は、 「うるさい!!!」 と長男を突き飛ばして泣かせ、 自分もわんわん泣いていた。 イケメンの長男が生まれたときは 連日通ってくれていた母も、 不細工な次男の時は、 「疲れるから行けない」 と、気持ちいいほどハッキリ冷たかった。 「もう、死にたいよ! 限界!」 と、泣いて訴えても、 「自分で産んだんだから責任持て」 と、正論で攻め立てられ、 夫も家事育児には、 まったく協力してくれなかった。 私の愚痴や弱音も 聞いてくれさえしなかった。 泣き狂う二人の乳幼児に 体力気力を奪われて、 私の引きこもりに拍車がかかってきた。 「ママ友だち」は、いたが、 気の許せる人は皆無だった。 で、1996年1月1日、 突然のように 「妊婦の子連れ帰省は、きついわ〜」 なんて、また日記を書き始めている。 懲りないやつ! ま〜た妊娠してやがる。 しかも、ケロッとしちゃってる。 なんだ、この人! この頃の日記によると、 私は、ずいぶんいろいろ努力しているようだ。 泣き狂う次男をベビーカーに乗せ、 デカイ腹を抱え、 長男の手を引いて、 隣町まで電車に乗って 長男を幼児教室に通わせていた。 そうかと思えば、 近所の育児サークルに入って、 同年代のお母さんたちと一緒に お汁粉を作ったり、 豆まき会などをやっていた。 それもこれも、 異常に人見知りの長男に 何とか社会性を身につけさせたいという、 涙ぐましい努力だった。 初めての子の歩く道は、 同時に、 親としても初体験のことばかりで、 とにかくわけが分からず、必死で、 いつもいつも緊張しっぱなしだった。 その母親の緊張が長男の緊張を 生み出していることに気付かずに、 私は、ともかく、 いつも緊張しながら必死に暮らし、 ますます長男を「緊張しい」に 育てていったようだ。 その証拠に、 「何とかなるだろ〜」 と、いい加減に育てた次男三男四男は、 みんなはじめから 肩の力が抜けている子ばかりだ。 さて、その後、日記を読むと、 妊娠中に妊娠悪阻やら重症の中耳炎やら、 次男にメン玉突かれたりやら、と、 病気や怪我のオンパレードだった。 やせっぽちで持病持ちの長男は、 入院・検査・通院・入院・検査・通院、 の、繰り返しで、 次男をおぶった満タン妊婦は、、 病弱な長男の通院に必死だった。 それから、「ぞろぞろ子連れ」の病院通いは、 10年以上続く。 もう、疲れすぎて、 それは、日記にも書かれていない。 4人のアトピー&喘息持ちの闘病記は・・・・・・ 残念ながら、書く気力も残っていなかったため、 記録無し。 それからずっと日記には、 空白ばかりが目立つ。 何にも無かったからではない。 いろんなことがありすぎて、 疲れて書けなかっただけだ。 1996年6月2日 「三男誕生。3890g。30分だけモーレツ」 なんつう、ざっくりとした記録。 生命の誕生の感動的記述とかは無いのか? そこから丸3年、日記は真っ白だ。 三男は、重症のアトピー性皮膚炎で、 皮膚がほとんど無かったし、 3人の気難しい男児を おんぶに両脇だっこで、 買い物ひとつ行けない有様。 夜は、3人で声を揃えて夜泣きの大合唱。 長男夜驚症、 次男異常なこだわり、 三男アトピー、と、 それぞれ違う理由で大暴れ。 私には、横になれる夜が無かった。 数ヶ月ごとに大下痢&大吐きで、 深夜診療所も上得意様・・・・・・ 団地の階下からは、 「子供がうるさい」と連日300回の無言電話。 号泣! 絶叫! 電話のベル! 喘息! 高熱! 呼吸困難! 号泣! 絶叫! そしてまた、電話のベル! 出るとすぐ切れ、そしてまた鳴る! 書けないよ! 日記なんて! その間夫は仕事で居ないか寝ているか! 死にそう! 完全にノイローゼ! ・・・・・・というわけで、 日記に何の前置きも無く、 解説も何も無く、 いつの間にか引っ越している我が家。 埼玉の田舎で、 今にも崩壊しそうな一軒家を 当時としては破格の安値で買って、 「怖い電話を掛けて来る下の人」の居ない 自由の地に移転したのだった。 で、夫は転職し、 私は、子どもたちを託児所に預けて働く。 そこから先も、まったく記述無し。 空白。 ときどき、職場のお局にいじめられたのか、 1998年6月20日 「お局! テメ〜死ね! このヤロ〜!」 などと書かれている。 書かねば気がすまなかったのだろう。 ソトズラのいい私は、 決して職場の愚痴や悪口は言わなかったから、 せめて日記でぶちまけなきゃ、 やってられなかったのだろう。 で、 1999年6月16日 「第四子妊娠判明。女児を願う!!!」 と書かれている。 (嗚呼、まだこの頃は、 長女を産む気でいるのだ!) さて、何のホルモンのいたずらか、 このころ、私の日記には、 すさまじいまでの夫への呪いの言葉が 延々と書き殴られているのだった。 1999年10月11日 「夫よ、全てにおいてやる気無し」 10月12日 「そんなにやる気がないのなら・・・・・・ いっそ死ね!」 10月13日 「検診で私の心音には 雑音が混ざっていると言われた。 機能性雑音というもので、心配ないらしい。 きっと原因は、あの使えねえ夫のせいだ!」 11月5日 「ムキ〜〜〜〜〜〜〜!!! ムキ〜〜〜〜〜〜〜!!! ムキ〜〜〜〜〜〜〜!!!」 12月2日 「『内診され上手』になってる自分がイヤ。 夫よりも、産科医の方がお得意様の 我が下半身。ケッ!」 12月13日 「中古で伸びきった私の子宮の中で、 小さめの第四子は、逆子どころか、 なんと『横になっている』状態らしい。 どうやって産むのさ! 横って! テメーのせいだ、へそ曲がり夫め!」 2000年2月7日 「破水した。今から入院。 子供たちを学校と幼稚園からかき集めて 実家の母に託してから入院だ。 バカ夫! テメーにゃ頼まねえ!」 2月8日 「陣痛促進剤過剰投与ではあるが、 無事・・・・・・ 『四男』!!!『四』!『男』!誕生。 医療ミス〜♪ 子宮破裂寸前だったよ〜ん(;O;)」 その後、日記はまた白紙。 で、ついに、2003年12月31日まで、 なんっっっっっにも書かれぬまま、 10年日記終了。 「子供たちの7、8ヶ月ごろって、 どうだったかな〜?」 と思って10年日記をひも解いてみたが、 ほとんど育児中の行き場の無い 母親のドロドロな感情のタンツボ状態で、 美しい思い出の記述は無かった。 ただ、うっすらとした記憶は、ある。 長男が7ヶ月で検査入院中に 病院のベッドで初めてのつかまり立ちをしたこと。 同じ病室の 重病の子供のお母さんたちが、 みんなで拍手して一緒に喜んでくれたこと。 次男が、7ヶ月の頃は、 私の髪の毛を引っ張りながら寝ていたこと。 常に抱いていないと大泣きなので、 私の食事は、いつも立ったまま、 炊飯器からしゃもじで直接 ご飯にかぶりついて終わりだった。 三男の7ヶ月の頃は、 布団や私の洋服に いつも三男の破れた顔の血が付いていたこと。 四男の7ヶ月の頃は、 上の子たちがみんなで育ててくれていた。 お兄ちゃんたちと早く遊びたくて、 8ヶ月で歩き出していた。 長男、次男、三男は、 「お母さんは休んでて」 と言って、四男をお風呂に入れてもくれた。 あんなに凄まじく、 あんなに悲惨な地獄の日々だったのに、 過ぎてしまえばみんな、 みんなみんな、忘れてしまった。 あの頃は、永遠にも思えた異常な日々が、 今は、一瞬に感じる。 あの頃、狂っていた自分が、 今はいとおしく思える。 頑張っていた自分を抱きしめてあげたくなる。 道で会う、育児真っ只中の 必死な若いママを見ると、 おせっかいにも、すぐ声を掛けて 「抱いててあげますよ」 なんて手助けしてしまう。 濃い・・・・・・濃い濃い、 濃い濃い濃い濃い濃い濃い濃い濃い10年が、 あっという間に過ぎていった。 今、私、38歳、夫42歳、 長男12歳、次男10歳、 三男8歳、四男5歳。 夫には、感謝している。 尊敬しているし、大事に思っている。 長男は、不在の夫の代わりに 弟たちをまとめ、力仕事をしてくれる。 次男は、家事をほとんどやってくれる。 三男は、アトピーも喘息も克服した。 四男は、疑いのない愛情を感じ、明るく育った。 そして、私は、 40を前にしてやっと、 自分を認め始めようとしている。 あの、脱水機の中に居るような10年間は、 あの、暗闇の中で立ちすくんでいるような日々は、 ひとつも無駄では無かったのだ。 ここにあるひとつひとつの幸福は、 あの10年、固い地面に あきらめずに水をあげ続けた結果、 咲いた花なんだ。 空白だらけの10年日記は、 白い紙に白い字でびっしり書いた 命がけの、魂の記録だったのだ。 (了) |
(子だくさん) 2005.2.8. あかじそ作 |