ドキュメンタリー
「 39歳のチャレンジ 」

 30歳で三男を産んでから、33歳で四男を産む寸前まで、
私は、迷いに迷っていた。
 周りに四人の子を持つ知り合いはいなかったし、
私自身もふたり兄弟で育ったし、
何より、そんな大勢を食わす経済力が
われわれ夫婦には無かったのである。
 「自分が子供を4人も持つ」なんていうのは、想像もできないし、
世間的にもコッパズカシイような気がして、
産む直前まで吹っ切れずにいた。
 しかし、そんな気持ちを押してでも、
あえて四人目の子供を作ったのは、
「どうしても女の子を産んで育てたい」
という欲望が捨てきれなかったのだ。

 四人目が生まれた瞬間、
医者に「ハンサムな男の子ですよ〜」と言われたとき、
絶望のあまり、分娩台の上でおんおん泣いてしまったが、
きれいに産湯をつかって私の胸元に連れてこられ、
勢いよく乳を吸い始めた赤ん坊を見て、
私は一瞬にして「オッケー」と納得できた。
 男児ばかり4人育てることを、
理屈ではなく、本能で納得できた。
 こいつは、ずっと前から、この乳を吸うことになっていた、
うちで育つべくしてここへやってきた子だ。
 目も見えないのに、迷いも無く私の乳に吸い付き、
無心に生をむさぼるこの子は、
私の意志や欲望を超越した存在で、
私にとっても要る人にちがいないのだ。
 現に、今さっきまで会ったことも無い人だったのに、
今はもう、居なくてはならない人になっている。

 あれから5年。
 実は、私はまだ全然あきらめてはいなかった。
 四男はおっぱいが大好きだったので、
乳離れができたのは、恥ずかしながら3歳を過ぎていた。
 完全に断乳して数ヵ月後、4年ぶりに生理がきたのだが、
34日周期で規則正しく回っていた月経周期は、
完全に乱れてしまっていた。
 45日だったり、23日だったり、本当に不順だった。
 結婚以来、ずっと基礎体温をつけていたので、
今度も毎朝計って表につけたのだが、
排卵日以後の高温期がだんだんに短くなってきている。
 つまり、ホルモンの分泌がどんどん少なくなってきて、
更年期に向って、ばくしん中なのだった。

 私は、四人の子供たちを育てながら、
「5人いける!」
という自信を積み上げていた。
 お金がなくても、収入の低い子だくさん世帯には、
公的な援助がいくつか受けられるし、
贅沢さえしなければ、つましく生活することができる、
実践できる、ということを体験から知ったからだ。

 男女産み分けで有名な産科医に相談し、
そこですすめられる女児産み分けにいいといわれるものは
すべて試した。
 めちゃめちゃお金もかかるし、手間もかかるが、
できるだけのことをして、それでだめならあきらめもつく。
 月経再開から2年。
 きっちり基礎体温を管理し、計算し、
完璧に産み分けの手順を踏んだが・・・・・・
できない!

 ここ数年の夫の衰えもはなはだしいし、
私も更年期予備軍だ。
 もうトシだからやっぱり無理なのか?

 数年おきに必ず我が家にはアカンボがやってきたのに、
ここ数年、まったくその兆候がないのを見て、
中一になる長男から小3になる三男までが、
「お母さん、なんでもう赤ちゃん産んでくれないの?!」
と、連日、泣いて責めてくるのもつらかった。
 「もうトシなのよ」
 と、ごまかしてはみたが、
その件については何も言わない幼稚園児の四男が、
スーパーで、じっとよその赤ちゃんに見とれ、
ウフフ、と微笑みながら歩み寄ったのを見て、
こりゃ、産まんわけにはいかん、と強く思ったのだった。

 うちの子供たちは、みんな男の子だが、
本当に赤ちゃんや小さい子が大好きなのだ。
 実際、四男が1歳を過ぎてから、
私は彼の身の周りの世話をした覚えがないのだ。
 風呂も兄たちが入れるし、アトピーの薬も兄が塗る。
 毎日、母親として洗濯と食事作りくらいはするが、
末っ子の子育てをした実感があまりない。
 かわいがったり、しかったりするだけで、
ちまちました世話は、みんな兄弟でやってくれた。

 「5人目も育てられる!」
 確信はあるが、しかし、授からない。
 2年間、きっちり計画・実践してきたが、
今年に入ってから、夫婦で疲れが出てきた。
 「だめか〜?」
 男の子四人育て上げる、それでいいじゃないか。
 十分大変なことじゃないか。
 そう思いはじめ、完全に産み分けのことが頭から離れた。
 女児に対する執着が消え、今の現状に腹が決まったとたん、
生理が遅れているのに気がついた。

 四男が入院したりして、
ばたばたして気づくのが遅くなったが、
市販の妊娠検査薬におしっこをかけてみたら
陽性だった。

(よっしゃ〜〜〜〜〜っ!!!)

 誰も居ない昼間の居間で、
私は、声を殺してガッツポーズをした。
 もう、生まれる子が男だろうが女だろうが、
障害を持っていようが、そんなの、関係ない。
 やっとうちに来てくれたこの子には、本当に感謝したい。
 ありがとう、と何度言っても足りないくらいだ。
 急に世界が明るくなってきた。

 私は、いとこのhanaと夫にメールでそのことを知らせ、
すぐさま、立ち上がって、市役所に行き、
母子手帳を交付してもらってきた。
 窓口では、5人目だということを用紙に書いたため、
「赤ちゃんってこんな人」というパンフレットを
「これ、要ります?」
と聞かれたが、
「一応もらっとこうかな!」
と言って、どっさり資料も受け取った。

 もう、わくわくがどうしても止められず、
その足で、新しくできたホテルのような産科医院に飛び込み、
翌週の医院内見学会を申し込んできた。

 ここのところの私と言ったら、
はっきり言ってまったく自信を失い、
希望の持てない生活をしていたので、
「まだ自分にも子供ができるんだ」という事実が、
一気に自信を回復させ、
何でも来い、という明るい気持ちがモリモリ湧いてきた。
 飛び跳ねたり、歌ったり踊ったりしたい衝動が止められなかった。

 その晩、帰宅した夫は、
5度目の妊娠告知にして、はじめて
「うれしい」
ともらした。
 夫にとっても、やはりこの子は大歓迎の子だった。

 さてしかし・・・・・・。

 このことを、実家の両親にどう切り出そう。
 前から「5人目ほしい」と言う私に
「やめてよ、まじで」と母は言っていたが、
そのたび、私は、
「言うことを聞いて5人目あきらめたとしても、
私は一生バーバを恨むことになっちゃうよ」
と、言い返してきた。
 母自身が面倒だからそんなことを言うのかと思っていたが、
「子供たくさん産むと早死にしそうで心配なのよ」
とポツリと言ったのを聞いて、ちょっと私もシュンとなった。
 簡単に産む産むと言うが、そのたび実は、
私自身も命の危険があるのだ。
 自分の希望を通すために
4人の小さな子供を「母の無い子」にしてしまうのは、
それは、自分勝手なことかもしれない。
 私は、なんとしても今回も
絶対に生還しなければいけないのだ。

 ある日、父が留守の日を見計らって、
母一人の実家に行った。
 この日こそ母にカミングアウトしようと思ったのだが、
関係ない話ばかりしてしまって、なかなか切り出せない。
 いよいよ、子供が帰ってくる時間が近づき、
家に帰らなければいけなくなって、
腰を上げながら思い切って切り出した。

 「5人目できたんで」

 母は、一瞬の沈黙の後、
「やめてよ、あんた〜!」と叫んだが、
私の決意を前から知っていただけに、
「森繁の『7人の孫』ってあったけど、とうとうアチシも孫7人かい」
と、苦笑して言った。
 私は、そこで立て続けに言った。

 「金沢のお母さんには何て言おうかな」

 そう、夫の母は、信じられないほど干渉的な人で、
結婚前は、「子供だけはできないようにね!」と言い、
結婚後は、「早く孫を産んでよ」と言い、
3人目を産んだ直後は、「これで打ち止めにしなさい」
と、我が家のバースプランに事細かく指示を出す人だった。

 4人目ができたときは、
「なぜ私の言うことを聞かないの?」
と、苦々しい顔をしたが、生まれたら生まれたで
「この子が一番うちの息子に似とるわ」
と目を細め、私たちが楽しげに暮らしているのを見て、
「まあ、4人もいいかもね」
と最近になって初めて認めたのだった。

 何年もかけて
やっと最近4人目の存在を認めたほどなのに、
間髪入れず「5人目できました」とは、まことに言いにくい。
 悩む私に、母は、
「生まれてから言えばいいじゃん」
と、これまた乱暴なアドバイスをくれる。

 しかし、そのやり口はいかにも母らしく、
ここのところ両親を相次いで亡くして落ち込んでいた母も、
久しぶりに心からの「にやにや」を浮かべていた。

 まあ、実際は、
お盆(そのころ妊娠8ヶ月)に帰省するから
モロバレは確実なのだが、
やはり今回も相手の目を見ず、
激しい拒絶反応にも気づかぬ振りで、
ニコニコ笑ってやりすごすしかなさそうだ。

 子供たちには、どういうタイミングで言おうか?
 まだ流産する可能性だってあるので、
安定期までは、知り合いには言わないつもりだが、
子供に言ったらすぐに友達に言いふらして、
友達はその親に言いふらして、
その親は、その知り合いに言いふらすだろうから、
まだ、子供たちにも言わない方がいいかもしれない。

 しかし、4月8日の中学の入学式で、
さっそく厳しい役員選考があり、
そこで断る理由としてこの妊娠を言わなければ、
気の弱い私は、間違いなく役員を押し付けられるだろう。

 と、いうことは、エックスデイは、4月8日か?

 迫る、4月8日。
 どうする、私!

             
つづく!
(子だくさん) 2005.4.5. あかじそ作