「 39歳のチャレンジ 2 」 |
妊娠がわかったとたんに、ゲンキンなもので、すぐにツワリが始まった。 普段は、「ハタチのラグビー部員か!」というほどの大食漢なのだが、 いきなり、食欲が落ちるので、ツワリだとすぐわかった。 長男のときは、やたらとトマトばかり食べていたような気がするが、 ツワリ自体は軽かったと思う。 妊娠5ヶ月の頃引越しをしたのだが、夫の帰りが遅いので、 私ひとりで重労働を含む荷造り作業をした覚えがある。 次男のときは、ひどかった。 妊娠がわかってから、生まれる寸前まで 起き上がれないほどの気持ち悪さに苦しんだ。 1歳の長男は、外で遊べないストレスで 朝から晩までギャーギャー泣き喚くし、病気三昧だし、 夫は、仕事で居ないし、で、生活がめちゃくちゃになった。 一番具合が悪いときに、一日に何度も夫の母親から電話がかかり、 「私の頃は寝てなんかいられなかった」 と、イヤミを言われ、精神的に追い詰められて、 ますます症状は重くなっていった。 三男のときも最悪で、 3歳1歳の男児たちは、食べるものから着るものから、 とにかく何かと細かいこだわりがあり、そのとおりにやらないと 恐ろしくぐずりまくった。 ツワリの症状も重く、吐くことも食べることもできず、 もうフラフラだった。 夫は、土日も仕事で、寝る以外まったく家にはいつかなくなり、 実家の母にも、「自分の蒔いた種でしょう」と、突き放された。 一番きつかった時期、誰にも助けてもらえなかった。 はっきり言って、この頃、完全に私はノイローゼだったと思う。 その頃、インターネットもやっていなかったし、 具合が悪くて外に出られなかったから、ママ友達もいなかった。 おまけに、「子供が歩く音がうるさい」と、 階下に住む年配の夫婦から、 一日何十回も、無言電話を掛けられていた。 部屋中に一日中布団を敷き詰めていたり、 オエオエしながら大きなお腹で公園に連れて行ったり、 いろいろ工夫してみたが、 無言電話の嫌がらせは止むどころかますます激しくなり、 完全に私の神経は、やられてしまった。 夫に泣きながら相談しても、 「そう・・・」 と言うだけで、とりあってくれなかった。 叫びながら、助けてくれと言っても、 「う〜ん困ったね」 と繰り返すだけで、 まったくこの地獄を抜け出す手立てがなかった。 今考えると、夫は夫で仕事が忙しく、寝る時間も少なかったりして、 自分が倒れないようにすることだけで精一杯だったのだろう。 それにしても、普段絶対「助けて」と言わない私が、 絶叫しながら助けてくれと言っているのに、 それをただの「主婦の愚痴」としか受け止められなかったのが悔しく、 それが今、夫をイジメる一番のネタとなっている。 「誰かをあてにしているうちは、ちゃんと自分の人生を生きられない」 私は、こういう悟りにいたった。 だから、勝手に田舎の一軒家を購入する手はずを整え、 とっとと引越しを慣行してしまった。 その結果、夫の仕事場が遠くなり、通勤でヘロヘロになった挙げ句、 人間らしい暮らしとは程遠くなってしまったので、 夫は、近所の会社に転職することにしたのだ。 引っ越して転職したのはいいが、 夫は相変わらず深夜帰宅で、育児には不参加だった。 何か相談しても、興味もなく、面倒くさいらしく、 敬語でただ「あ、そうですか」というだけなので、 相談もしなくなった。 というか、会話もスキンシップも皆無になった。 われわれ夫婦の間には、常に冷たい空気が流れ、 「私ら何で一緒にいるの?」 と、問う私に、 「さあ」 としか言わない夫。 心は完全に家庭内別居であった。 その頃から、同じく家庭内別居の大先輩・夫の母は、 自分の夫や姑にうんざりしているらしく、「孫が生きがい」と言って、 ちょくちょく石川県から娘と共に泊まりにやってきた。 夫ともうまくいっていないというのに、 夫の母と妹が1週間近く居つき、 やれ何を食べたいだ食べたくないだ、と、わがまま放題なので、 私もかなり精神的にしんどく、 また、来るたびに「田舎に帰ってこい」としつこく迫るので、 あるとき私もキレてしまい、 「離婚したら息子さんひとりで帰るんじゃないですか?」 と言い放ってしまった。 その言葉のあと、シーンとしたが、 私は長年の嫁イビリから一気に脱却できたような気がして、 いきなり吹っ切れてしまった。 その瞬間から、私は立場を逆転させ、「鬼嫁」と化した気がする。 基本的には、じっと義母や義妹のわがままを黙って聞いているが、 度を超したときには、すかさず、 「おかあさん、それ違うよぅ」 とか 「ややちゃん(義妹の名前)、そりゃわがままってもんだよ」 と、下町のおばちゃん口調で言ってしまう。 初めは面食らってた彼女たちも、 私が基本的に友好的で、 行き過ぎたときだけズバッと切り返すことを察知し、 また、私が裏表のない性格だとわかってきたらしく、 きついことを言われても、必要以上にこじれることはなくなった。 一方、私も、夫に対して責め立ててばかりいた自分に気づき、 「これじゃあ、逃げ腰になって当然だ」と思った。 無責任な態度を責めることはあえてせず、 赤ん坊に噛んで含めるように話すようにしたら、 夫も心を開いて敬語以外で話してくれるようになってきた。 「4人目を産みたい」 という私に、理解を示し、 そして、4年ぶりにお互い相手の体に触れたのだった。 子育ての歴史を語れば、夫婦の歴史が絡んでくる。 夫婦の歴史を語れば、自分たちの成長の記録が絡んでくる。 私たち夫婦は今でこそラブラブだが、ちょっと前まではギリギリだった。 今は、もう、大事なことも難しいことも、夫に相談などまったくせず、 自分でさっさと行動し、事後報告さえしない。 そのバランバラン感が、我が家には向いている。 育児書にも、奥様雑誌にも決して載っていない、 ひとにはあまりお勧めできない、 私と夫の間だけのオリジナルの秘訣である。 でも、こういうスタイルが確立できたのも、 子供たちが私の相談にのってくれて、 何かと手助けしてくれるからなのだと思う。 子供がいなかったら発生しなかった悩みもあるが、 子供がいなかったら解決しなかった問題もいっぱいある。 そして、たくさんの子供を育てることができているのは、 私の必死な育児だけではなく、 夫の必死な稼ぎがあるからなのだ。 家に帰って寝るだけなのは、夫だってつらかったはずだ。 仕事で死にそうに疲れているのに、 連日夜中まで妻に泣きながら抗議されているのもつらかっただろう。 勝手なことばかり言って嫁イビリしていると思っていた義母も、 自分は質素な暮らしをしながらも、 子供たち全員に多額の積み立てをしてくれているし、 第一、子供たちを愛してくれている。 子供たちにとって、無償の愛を実感するということは、 かけがいの無い経験なのだ。 この子たちが生きていくうえで、どうしようもなくつらくなったとき、 この「愛された記憶」が、彼らを救う唯一の支えとなるはずだ。 かつて、周りの人間にうらみつらみばかりつのらせ、 人間不信、自分不信に陥っていた私も、 今では、感謝の気持ちに包まれて生きている。 もう私は、何もかもを、一生分恨んだ。恨み尽くした。 もう誰も恨まないし、何にも要求しない。 ただただ、魂を以って生きることに専念したい。 きれいな心で、子を産みたい。 私の腹づもりは、できている。 ドンと来い。ドンと来い。 どんなヤツでも、私は引き受ける。 今はツワリで土気色の顔をしてはいるが、 大丈夫だから安心してうちに来なさい、と、 そう「中の人」に呼びかけている。 つづく |
(子だくさん) 2005.4.19. あかじそ作 |