みしゃさん 82300 キリ番特典 お題「1歳児の日常」
「 一歳児という時代 」

一歳児。
 現在13歳の長男の一歳児時代の思い出といえば、
「子供は可愛い」でも「私は悲惨な気持ち」。
 この二つに集約される。

 第一子は、親にとって特別な存在だ。
 でも、第一子だから、
こっちは、子供にも育児にも慣れていない。

 今から思うに、第二子や第三子、第四子と比べれば、
まだ手が掛からなかった方だと思う。
 しかし、初めてのことだらけで、わけもわからず、
悩んでばかりで、
可愛がる一方、だいぶ神経質になってしまった。

 1歳児は病気をする。
 しかも、突然重症になる。
 一歳児は、わけもわからず泣く。
 その一方、わけがわかっていながら、
親と交渉する意味でも泣く。

 オムツを外すときには、
大人の生活では、考えられないようなことを連発する。
 そんなところで脱糞するのか、放尿しちゃうのか、と、
絶叫の毎日だ。

 そして、夫は、父親であるにも関わらず、
妻の心身の疲れなどには、まったく気づかず、
自分もまだ子供の域で生きている。

 思いっきり自分の命や運命を預けてくる一歳児。
 混乱する母親。
 な〜んもわかっていない父親。

 第一子の一歳児時代は、大変なのだ。
 救いといえば、
「自分の子供って、つくづく可愛いな〜〜〜!!!」
と、思えることくらいだ。

 しかし、今、私は、しみじみ思う。

 あの頃、自分は、自分のできる精一杯のことはしたけれど、
自分の苦しさよりも、もっと子供の可愛さ自体を
たっぷり実感しておけばよかったなあ、と。

 自分の苦しさばかりに注目してしまって、
二度と戻らないこの子の「一歳児時代」を楽しんでいなかった。

 私の場合、子供が1歳を過ぎるとすぐに次の子ができた。
 長男、次男、三男、と、2歳違いで、ぶっ続けだった。

 一歳児を育てているときは、同時にいつも妊婦だったのだ。
 つまり、「子供たちの一歳児時代」イコール「妊婦時代」で、
常に、おっぱいとオシッコとウンチとでかい腹がセットだったのだ。

 育児を楽しむ?
 じょ〜〜〜〜〜〜〜だんじゃない!
 連日死に物狂いだ。

 子供は可愛い。
 随分可愛がった。
 しかし、それ以上の修羅場があった。

 まだまだカタコト言葉で、それが可愛いのだが、
言葉だけのコミュニケーションでは、まだ通じない。
 言ってもわからない。
 叩いてもわからない。
 でも、何か感じているやつら。 
 何かを言いたいやつら。

 しかし、私は、まだ若かった。
 自分が、自分が、という自我が強かった。
 そんな成長過程の一歳児を受け止めるほど
大人ではなかったのだ。
 自分自身が、まだまだ成長過程だった。

 第四子がなかなかできなくて、
三男との間に3年半開いたのだが、
その間、上3人は、だんだんと人間らしくなり、
言葉が通じるようになり、
学校や幼稚園に行ってくれるようになったので、
やっと私は、心の整理をする時間が持てた。

 私は、第四子にして初めて
「一歳児って・・・というか、子供って、なんて可愛いのだ!」
としみじみ感じた。
 やっとわかった。

 こんなに可愛い時期なのに、
かつて3人分も、いい時期を見過ごしてしまった!
 ・・・・・・後悔しても後の祭で、
上の子供たちは、気づいたときには、
すでに少年になっていた。

 この子たちひとりひとりに、「一歳児時代」は、たった一年しかない。
 ウンコシッコをその辺にぶちまけようと、
食事のたびに、食べるより多く床にダーダーこぼそうと、
スーパーで買い物できないくらいに逃げ回ろうと、
おもちゃ売り場やお菓子売り場で
ひっくり返って大暴れしようと、
それは、ほんの、ほ〜んの、いっときのことなのだ。

 親がわたわたしてるうちに、
子供は、幼稚園に行き、学校に行き、
親なんかあっち行っててよ、と言い出す。

 彼らは自分ひとりで育ったような気になって、
今にすっかり忘れてしまうだろうが、
情緒の奥には必ず一歳児の頃の
親との関わりが残っているだろう。

 添い寝したぬくもり。
 母の子守唄。
 口の周りをぬぐわれたこと。
 汚れた服を着せ替えてくれたこと。
 だっこされた感覚。

 それでいいのだ。
 きっと、忘れてしまってもいいのだ。
 なにも覚えていなくても、自分が親になったとき、
知らず知らずに同じことができるはずだから。

 育児評論家とかには叱られそうだけど、
子供が一歳児の頃は、
親は難しいことをな〜〜〜んも考えず、
ただただ本能のままに可愛がればいいんだと思う。

 しつけとか、子供の将来とか、
父親との希薄な関係とか、
そんなことは、
後で嫌ってほど考えなければならなくなるんだから、
せめて子供がゼロ歳、一歳の頃は、
チュッチュチュッチュしていればいいんじゃないか?

 そのことが、
子供が将来、苦難に打ちのめされたとき、
無意識のうちに心を支え、
倒れてもまた立ち上がる力になるんじゃないか?

 親なんて、
親の苦労なんて、
子供はすっかり忘れてしまってもいいんだ。
 親は、そんなものを担保にして、
将来子供にぶら下がろうとしてはいけないのだ。

 子供に「生き続ける勇気」を持たせられれば、それでいいんだ。

 難しいことじゃない。
 一歳児を愛すればいいだけだ。
 自分を愛するように、一歳児を愛せばいいのだ。

 夫の協力とか、周囲の理解とか、
そういうものに期待して、
裏切られた憎しみにメラメラする暇があったら、
好きなものでも食べて、粋な映画でも見て、
心の毒を出したほうがいい。
 そしてまた、キレイな心で、子供を愛そう。

 ああ、来年の今頃、
うまくいけば我が家にも一歳児がいるはずだ。
 その頃、私は、一歳児をどう感じているだろう?

 「人の気も知らないで、このバッキャ〜ロ〜!」

と、毒づいているかもしれない。

 生々しい一歳児の手ごわさを、知っているだけに、
実は、かなり恐れていたりして・・・・・・
                         

                                   (了)

(子さくさん)2005.7.12.あかじそ作