「 YES or OFF 」

 「親」って仕事は、難儀なもんだと思う。
 私は、「神経質で自己チュー」な父親と、
「強引でオオザッパ」な母親に育てられたが、
今、自分が
「神経質で強引で自己チューでオオザッパ」
な親になっていることに呆然とする。

 子供の頃から、理想の親像というものはあったが、
実際目の前で見てきたものは、
「神経質で自己チュー」な父親と、
「強引でオオザッパ」な母親だった。
 だから、知らぬ間にそれが深層心理に刷り込まれ、
自分の親とそっくりな親になっていた。

 こう考えると、
人が「親をしている」姿を見るにつけ、
その人がどう育てられてきたか、
よ〜くわかる気がした。

 自分も第一子だけを育てているときそうだったのだが、
一応、「頑張ってちゃんと親しよう」と思っている時期は、
どちらかと言うと、子供に媚をうっていたような気がする。

 子供の無理な要求にも
「ん? 何々? そうか〜、そう思ったんだね〜」
と、引きつりながら笑顔を作り、
ブチ切れそうになりながら、
必死で子供の顔色を見ていた。

 しかし、いったん自分の我慢の許容量を超えてしまうと、
突然、自分の中の「親」のスイッチが「OFF」になってしまい、
「テメ〜、このやろう! ざけんじゃねよ!」
と、年端も行かない乳幼児に悪態をついてしまうのだ。

 思うに、無理に頑張って「いい親」をしようとしているから、
自分の中で不自然なひずみが生じ、
「親」のブレーカーが一気に落ちてしまうのだ。

 「頑張っていい親している」という状況が怖いのは、
「子供の意思を尊重しなくては」という強迫観念から、
子供のやることなすことすべてに「YES」と「OK」で答え、
自分の中で生じた
「そんなんいやだ〜!」
という声を無視し続けるから、
突然コップの水があふれるように
「ンギ〜〜〜〜〜〜ッ!」
となってしまう。
 そこで、「親」として「ンギ〜」となって
「そりゃNOじゃあ〜!」
と子供に言えれば、
それは「しつけ」と呼ばれるものになるのだが、
「親」=「いい親」=「子供の意思を尊重」
という定義しかないときは、
「親」が一気に「OFF 」になり、
一個人として、ひとりの他人として
「ンギ〜〜〜!」となり、
子供に暴言を吐いたり、暴力を振るったりしてしまうのだ。

 私は、子供が増えるにつけ、
「いい親なんてやっとられん」、
「私なりのやり方しかできんのじゃ!」
と吹っ切れ、はじめて、
「親」というブレーカーが落ちなくなった。

 つまり、「親している」状態から、
「親になっている」状態になったわけだ。

 子供を巣立たせるまで、
自分に無理が生じない程度に「親」であれば、
それでいいのであって、
子供が巣立った後は、
「なんとなくあんたの親」
というスタンスでいいと思う。

 子供が独立して、結婚しても、まだ
「私はあなたの親である」と豪語し、
いつまでも子供を管理しようとしたり、
子供が自分の方を常に注目するように強要するのは、
子供にとってはえらい迷惑な話だ。

 我慢に我慢を重ね、自分を殺し、
「親をすること」に命を賭け、
子供の意思を尊重し続けていたら、
そういう親になってしまうのも無理は無い。

 「自分はいつでも自分であり、親でもある」
という境地に到れば、
子供に対して
「私の青春を、私の人生を返せ」的な考えは起きないと思うのだ。

 巣立った子供にも、孫に対しても、
必要以上の思い込みも思い入れも持たず、
純粋に「可愛いのう」と思えるのだ。

 だから、私は、
みんなに「子だくさん」を勧める。
 子供が少ないと、
「頑張って親している」状態のまま
何とか乗り切れてしまうからだ。

 子供が大勢いれば、
「こりゃあかん!」
「私の力だけでは手が回らん」
「人事を尽くして天命を待とう」
という風に吹っ切れた人が増え、
「頑張って親しました」だから「子も孫も私のもの」
と言う有害なジジババが減らせるのではないか?

 趣味の裁縫をしながらいつも思う。
 しつけ縫いは大事だ。
 しつけが作品の仕上がりを決める。
 でも、しつけ糸は、本縫いが終わったら抜く。
 未練ひとつ残さず、すべて抜き捨てる。
 一生懸命しつけた糸は、
出来上がりの作品には一切、跡を残さない。
 しつけをした痕跡すら残さず、
完成を助ける。

 子供にとっての「親」って、
そういうものなんじゃないかしら?


 (了)

(子だくさん)2005.8.30.あかじそ作