「 床下浸水 」

 「雨音がやけに強いなあ」
 「台風はまだ遠いはずだよねえ」

 と、深夜、テレビを見ながらぼんやり思った。

 我が家は、この辺では一番低い土地に建っており、
数年に一度は、台風で床下浸水の被害に遭う。
 したがって、台風が来る前に、近所の人たちはみな、
車を高台に避難させていたのだった。

 まさかね、と思いながらも、夫に車を見てきてもらうと、
夫は血相を変えて戻ってきた。

 「やばい。もう前の道路冠水してる!」

 すぐさま夫は、車のキーを握り、
私の実家近くの路肩に車を避難させに行った。

 私は、実家に電話をし、
いつも避難させる路肩が空いているか聞いた。
 すると、母は、
「うん、うん、うん」
と、一通り話を聞いた後、
「ちょっとお父さんに言って」
と父に電話を替わった。

 いっつもそうだ。

 一通り全部説明をさせておいて、
そして必ず父に替わる。
 そして、また一から説明をさせる。
 父だと話がややこしくなるので、
できれば母に事情を聞いてもらいたいのだが、
面倒だと思うのか、いつも父に替わってしまう。

 「あ、替わらないでも・・・・・」

と、言ったときには時すでに遅く、
電話口でイライラしながら様子をうかがっていた父が
乱暴に電話に出る。

 「何だ!冠水してから今さらバタバタしているのか!」

 「いや、今回は急に水が出たんだよ・・・・・・」
と、言い訳すると、
チェッチェチェッチェ舌打ちしながら、
「何でいつもお前はやることなすことおせえんだ!」
と、完全に切れている。

 「いや、ただ、いつもの路肩が空いてるか、
窓から見てくれればいいだけなんだけど」

 「ダンナは何やってんだ!」

 「今、大雨の中、車置きに行ってるんじゃないの」

 「おせえんだよ!」
 とにかく、もう、話にならないくらいはじめから切れている。

 娘一家を心配してくれるのはありがたい。
 しかし、心配しすぎて、頼んでもいないのに
いつも我が家の内情にまで食い込んで物凄くイライラしている。

 「じゃあ、もういいよ、
とにかく近所もみんな今慌てて避難しているところなんだよ」
 半ば、こちらも切れ気味で電話を切った。

 夫の携帯に電話を掛けて、
その場所に停められたか直接聞こうとしたが、
留守電になっていてつながらない。
 そのうち、夫がずぶぬれで帰ってきたので、
「駐車場の前の電柱に停められた?」
と聞くと、
「え? 駐車場の中じゃないの?」
と言う。

 その駐車場は、とあるスポーツセンターの駐車場で、
無断駐車をすると警察に通報されてえらい目に遭うので、
以前、父が私に
「避難させるなら絶対駐車場の外にせよ」
と厳命を下していたのだった。
 いつもは、私が台風が来る前に、
余裕をもってそこへ停めに行っていたので、
夫はその場所を知らず、
私が説明したのにも関わらず、
あせって駐車場の中に入れてしまったらしい。

 「携帯に電話したのに何で出なかったの?」
と私が聞くと、
「あ、電源切ってた」
と、夫は、慌てて電源を入れた。
「今頃入れてどうすんのよ」
 私は、父に切れられ、夫に切れた。

 夫が車を避難させに行っている間に
懐中電灯で照らしながら玄関横の通気口を見ると、
ざーざーと家の下に水が流れ込んでいた。
 家の周りはあっという間に水に浸かり、
周囲の道路もすっかり冠水し、
大人の腰くらいまで水が上がってきた。
 きっと、近くの用水路が決壊したのだろう。
 気付いたときには、一瞬なのだ。

 まもなく実家から電話があり、
母が「どうした〜?」と聞いてきた。

 「また床下に入っちゃったよ」
 私が言うと、母は、
「ありゃ〜」
と言いながら、また
「ほら、お父さん」
と電話を替わった。

 ちょっと! なんでいちいち父に替わるんだよう!

 父は案の定、またカンカンに怒っていて、
「いつもの場所に置いてねえじゃねえか!」
と怒鳴ってくる。
 「ダンナが間違えて駐車場の中に入れちゃったんだってよ」
と私が言うと、
「チッ」
と激しく舌打ちし、
「何やってんだよ、ばっかやろう!」
と尋常でない怒り方だ。

 「この大雨の中でスポーツセンターの人もチェックに来ないでしょうよ、
明日朝イチで私が場所移しに行くから」
と、なだめると、
「何で俺の言うことを聞かねえんだよ!」
と、電話を叩き切った。

 「何なんだよ〜!!!」

 私も完全に頭に来た。
 こっちは床下浸水の被害者だ。
 同情されはしても、ぶち切れられる覚えは無い。

 その晩、何度も何度も外を見てみたが、
今までにない勢いでどんどん水位が上がってきて、
玄関のドアまであと5センチのところまで水が来た。

 「あっ来た!」

 台所で夫の声がしたので、行ってみると、
床下収納が、
せり上がりの舞台のように30センチも浮き上がっている。
 外の雨音は、ますます強く激しくなっていく。

 「床上まで来るかもよ!」

 私と夫は、パソコンなどの電化製品を片っ端から2階に上げ、
タンスの下段の引き出しを一個一個運び上げ、
足元のコンセントに差しているプラグを全部抜き、
延長コードをフルに使って、腰から上のコンセントに差しかえた。

 重いものを何度も何度も2階に運び上げているうちに、
お腹がパンパンに張っているのに気付いたが、
もうそれどころではなかった。
 ぐんぐん水が上がってくる恐怖は、何にも例えようがなく、
ともかく必死でいろいろな物を運びまくった。

 携帯ラジオで天気予報を聞くと、
我が家のある埼玉中南部にも大雨洪水警報が出ていたが、
雷の音もだいぶ遠くなり、雨足も弱まり、
通気口からは、枯葉を浮かべた水がささ〜、っと出て行った。

 「峠を越えたようだな」
 引越したばかりのようになった部屋で夫と話し合い、
とりあえず寝ることにした。

 お茶を入れた水筒や着替えを枕元に置き、
子供のランドセルや着替えや靴を2階に上げて、
「ふ〜〜〜」と太いため息をつきながら寝た。

 翌朝5時ごろ、長男が起きてきたので、
私は、布団の中から
「昨日床下浸水したんだよ」
と声を掛けると、
「えっ!」
と夫がメンタマひん剥いて起き上がった。

 「え、じゃねえよ、あんたも知ってるでしょうが」
いつもは何があろうと起きないくせに、
夫は「床上浸水」と勘違いして飛び起きてやがる。

 「昨日一緒に荷物上げたでしょ!」
と、私が冷たく吐き捨てると、
「あ、そうか」
と言ったきり、それきり数時間起きて来なかった。

 外を見ると、見事に水は引いていたが、
灰色のはずの道路一帯が全部、泥で茶色に染まり、
何だか違う色彩の世界になっていた。

 6時半ごろ、いきなり父がやってきて、
「車移動するからキーよこせ!」
と言い、部活の朝練に出かける長男と共に去っていった。
 暇な年寄りは朝が早い。

 さて、子供たちは、いつもどおり登校・登園した。

 ゴミを出しに通りに出ると、
工事現場の簡易トイレは道にぶっ倒れているし、
植木鉢だの木の枝だのが道のあちこちに散らばっていた。
 その辺を歩き回って、
数十メートル離れたマンションの前に転がっていた、
うちの外サンダルとバケツを回収した。
 水道メーターのふたは、
家の裏のとんでもないところに流れて着いていた。
 敷地内の下水のふたも裏返って転がっており、
下水の穴から中を覗くと、
雑草だの菓子の袋だのが汚らしく流れ込んでいた。
 どろどろのふたを指でつまんでそっとかぶせ、
蚊に刺されまくりながら家の周りを掃除していると、
近所のおばさんが、ニコニコしながら笑い掛けてきた。

 「予定日はいつなの?」
 私は、ハッとして自分の腹を見た。

 「この間、あなたがオメデタだって教えてくれたのよ、お父さんが」

 (あのくそじじい、おしゃべりだなあ!!!)
 もう一目瞭然の腹だから、
いい加減近所にもカミングアウトしてもいいのだが、
わざわざ自分から「聞いて聞いて」と言わなくたっていいじゃないか?

 身内には、いつも機嫌が悪いくせに、
ソトヅラはめちゃめちゃいい父は、
近所のおばさんや陶芸仲間には、
自分からどんどん家族の内情をぶっちゃけているらしい。

 「はあ、11月2日が予定日なんです」
と、私が言うと、おばさんは、
「女の子なんですってね」
とニコニコ笑った。

 (どこまで言っちゃってるんだろう! あのじじいは!)

 「はあ・・・・・・」

 私は、子供と夫が全員出払った後、
大きなため息をつき、畳にバッタリと倒れこんだ。
 疲れた!

 と、電話が鳴り、出ると、母だった。
 「水引いたんだってねえ」

 「うん、でも床上まで来なくてよかったよ・・・・・・」
そう言っていると、電話の相手は、
断りもなく、いつの間にか父に替わっていた。

 「台風来る前にスーパーに買い物に行くか?」
何で替わる?
 何でいつも父が電話に出るんだよ!

 「行くのか?行かないのか?」
 もうイライラしている。

 「じゃあ行くよ」
 なんだかんだ言ってもいろいろ買ってくれるのだから、
金欠の今は、ひたすら低姿勢でおごってもらう方がリコウだ。

 父は、なぜかうちの車で迎えにきた。

 「あれ? また台風来るから、まだ車戻さなくていいんだけど」
と言うと、
「違う! 車の向きが違うから、向きを変えるためにこれで来た」
と父は言う。
「は? 向き?」
 私がポカンとしていると、
「お前のダンナが右向きに停めちまったから、
逆だから、向きを変えたかったんだよ!」
とイライラしながら父は言う。

 「はあ?」

 車を避難させる場所が
自分の指定した場所になかっただけでも面白くないのに、
自分の思うような向きに停めていなかったのが、
これまた物凄く面白くなかったらしい。

 「じゃあ、車の向きを変えがてら買い物に行くの?」
と聞くと、
「そうだよ!」
とプンプンして言う。

 (いちいち細かいんだよ!)

 「これどうやったら開くんだ!」
父は、バックミラーを指差した。
 ミラーの開き方がわからなくてそのままウチまで来たらしい。
 (あぶねえなあ、このおやじ・・・・・・)

 私が、サイドブレーキ付近のスイッチを押してミラーを開けると、
今度は、ラジオのスイッチを切れ、と言う。
 うるさくてうるさくてイヤンなる、と言う。
 (私の車じゃんか、いちいちうるさいなあ!)

 「冷房のスイッチは?」
 「これ!」
 「違う!前から風出すスイッチだよ!」
 「だからこれ!」

 文句たらたらの父に、こっちが切れそうだった。
 しかし、これでも心配したりおごったりしてくれるんだから、
私が一歩引こう。
 大人にならなくては!

 いつもの父のお気に入りのスーパーに着いた。
 父は、いつものステーキコーナーに行き、
「何? 国産ステーキ半額? あ〜〜〜、だめだ!千葉産はイヤだ!」
と、またいつものように大声でわめきだした。

 別に千葉産に何の思い入れも知識もないのだ。
 何となくイヤなだけで、この騒ぎだ。

 見覚えのある店員さんを見つけると、踊りながら
「千葉産しかないんだも〜〜ん」
などと突然話しかけ、ぽかーんとされている。

 このじじい・・・何もかも自分のペースだ。
 誰にもわからない自分の中だけのストーリーを展開し、
周りの人間にいきなり意味不明な言葉を吐きかける。
 話しかけられた方は、まるで通り魔に遭ったように
凍りつくしかできない。
 凍りついた人たちに、
「いやあ、この人はこういうことが言いたかったんですよ」
といちいち説明し、フォローするのが私の仕事で、
その報酬として、晩のおかずを少々買ってもらっている。
 母に、そうしてくれないかい、と言いつかっている。

 経済的には、非常に助かるが、
時々、自分で買った方がどれだけラクか、とも思う。

 今日も牛乳や食パンなどを買ってもらったが、
帰り道、また父は、ぐずりだした。

 「お前、子供のカバンが重過ぎるじゃないか!」
 朝、長男の荷物があまりに重そうなので、びっくりしたらしい。
 「でも、もう中学生なんだから大丈夫だよ」
と私が言うと、
「何で親が見てやらないんだ!」
と怒鳴ってくる。
 「中学生の時間割揃えてやれ、って言うの〜?」
とあきれて言うと、
「親が面倒見てやらなくてどうすんだ!」
と言う。

 な〜にが、親が子供の面倒、だ。
 自分の子供が中学生だった頃は、
酔っ払って帰って来ては、
会社でのイライラを家族にぶちまけて
子供の教科書を平気で破いたりしていたではないか!

 私は、もんもんとしながらも、
「ここは私が大人にならねば」
とジッと耐えた。

 私はウチの前で下ろされ、
「じゃあ、ありがとう、車よろしくね」
と言うと、去ろうとする私に向かって、父は激しくクラクションを鳴らした。
 私が雨の中、傘を差しながら、
両手に重い荷物を提げて車の所まで戻ると、
父は、イライラしながら窓を開け、
「床下の水は抜かないのか?!」
と怒鳴った。
 「まだ雨が続いてるし、これからまた台風はくるから、今はいいよ」
と言うと、
「ポンプで抜かないのか?」
と、また怒鳴る。
 「だから、今は、まだいいよ!」
と重い荷物をずり上げながら答えると、
「今日やらないと、おれは、もうやらねえからな!」
と言う。
「やらなくていいって。市役所に連絡したから消毒に来てくれるし」
と言うと、
「ケッ」
と言い、
私の顔を挟んでやる、とばかりに
いきなり窓を人の鼻先で閉め、
凄い勢いで車を出した。

 (このくそじじいめ〜〜〜!)

 誰もあんたに何にも頼んでないっつーの!
 あんたに何かひとつでも頼めば、百の荷物を背負うっつーの!

 このイライラをどうしてくれよう。

 ふと気付くと、私は、
子供たちが心配なあまりにいつも怒鳴り、
一生懸命だけど抜けてる夫にいつもブチ切れ、
自分の描く段取りと少しでも違うと、
イライラして家族に対してギャーギャー怒ってきた。

 これじゃあ、ヤツと同じじゃないか!
 心配のあまり、いつもいつもテンパッテいて、
しつけようしつけようと必要以上に意地悪く厳しくし、
思い通りにならないと大騒ぎ。

 ああ、まるっきり、アイツワールドじゃないかい!

 反省!
 猛反省!

 私の心の床下も、思いきり浸水した気分。
 見えない部分が湿ってる。
 見えないけれども大事な基礎が、ジメジメしてる。
 上に住んでる家族たちの、心と体をおびやかしている。

 気をつけよう、
あ〜〜〜あ、気をつけよう。

 くそじじいな私を、心から排水いたします。
 床上まで被害が及ぶ前に!!


(追記)
 テレビのニュースで、
浸水したマンションから救出される妊婦の映像が映った。
 レスキューの人が、
「妊婦さんが濡れるといけないから毛布を!」
と叫んでいた。
 こっちの妊婦さん(私)は、
昨日から大荷物を何往復も運び上げて、
精神的ないたぶりを受けながらも、
誰からも毛布を掛けられることもなく、
それでも平気で生きているよ。
 たとえ腰まで浸水している中で産気付いたって、
平泳ぎで産院まで泳ぎ着く自信があるよ。

 それくらいの根性がなければ、
こんなクソオヤジの娘なんてやってられないもんね!



 (了)

(しその草いきれ)2005.9.6.あかじそ作