「宇宙←→私」  テーマ★銀河鉄道 


宮澤賢治にハマったのは、小5の頃だった。
教科書でいくつも紹介される、訳の分からん怪しげな物語を書く、
ボウズ頭のお兄さんに、妙に惹かれたのだ。
ハマって、読みまくって、さらに訳がわからなくなり、
大学の国文学専攻に入学し、ある先生のゼミで1年間研究したが、やっぱり
「変なの!」
という感じが深まるばかりであった。
賢治は、農業や、庶民の生活や、人間の素朴な生きザマについて、
また、摩訶不思議な言語の普及に、かなり頑張っていたが、
現代っ子だった私には、
「変だ! 分からん! でも、気になる!」
といった作家だった。

「 銀河鉄道の夜」は、小学校の頃に、ちょろっと読んで、
「銀河鉄道999」の原作じゃないんだぁ、と思ったくらいで、
大した感想も持たなかった。
ただ、その本(「宮澤賢治全集」子供版)は、ドでかく、5センチほどの厚みがあり、
表紙と裏表紙、そして、カバーに、版画で漆黒の宇宙が描かれていた。
その、存在感のある「宇宙の絵」が、私の学習机の目につく場所に常にあり、
いつもいつも、視界の隅っちょに、入っているのだった。

私は、その頃から、無意識の内に、常に宇宙を見続け、
ふと気付くと、いつもいつも、
「宇宙、って、何? 何なのさ?!」
と、哲学的な事を自問自答している子供になり、
思春期を過ぎてからは、
「宇宙と自分」について、遠い目をして考えては、頭を抱えて悩んでいる少女になった。

両親は、「全集」を、自分で買い与えて洗脳しておきながら、
娘を「変な子!」と、面と向かって言うのだった。

おそらく、私は、賢治を、
「変なの!」
と、言っておきながら、しっかり、その「変」に影響され、
自分も同種の「変さ」を育んでいったのだった。

そして、大人になり、自分の弱さ、つまらなさに、もう、何もかもいやんなっちゃった時に、
「宇宙」は、何げに私の横に寄り添い、
「だいしょび、だいじょび」
と、背中をさすってくれた。

彼は、夜な夜な、コンパで飲んだくれる落ちぶれた私の前に現れ、
「あんた、ちっぽけ。でも、あんただけでなく、みんなちっぽけ」
と、ささやき、
「気にしない、気にしない、あんたがどんなに暴れても叫んでも何しても、
宇宙にとっては、なんっっっっっっっっにも影響ないから!」
と、言い放った。

私は、へべれけに酔っ払うたび、そんな「宇宙くん」と交信し、
「なあんだ、じゃ、しょうがないやね!」
と、多方面に渡って、悟りを開いていったのだった。

それでもやっぱり、ぐずで要領の悪い私は、この難しい世の中で、
しょっちゅう、しょっちゅう、壁にブチ当たり、ブチ当たったまま、旧式ロボットの様に、
壁面に向かっていつまでも突き進もうとしている。
そんな時、また「宇宙」(ヤツ)は、どこからともなく現れ、

「悩まなくていいから。 あんたがいっくら悩んだところで、宇宙的には、変わらないから!」

と、耳元で愛想なくつぶやいて行く。

宇宙と私。

宇宙←→私。

そんなこんなで、やっとこさっとこ、今日も生きていけるのだ。
ちっぽけな私は。

(おわり)
2001.07.05 作:あかじそ