「 新生児・旧生児 」

 数年前、立て続けに祖父母や伯父を亡くして、
愛すべき彼らの死に際を見てきた。
 彼らの人柄は、みな一様に明るかったが、
どうしても亡くなる前の辛い状況が思い出されて、
彼らを暗い気持ちで思い出していた時期が続いた。

 しかし、今は違う。

 気の強いばあちゃんだったなあ、
とぼけたじいさんだったわ、
おじさん、バカみたいにいい人だったなあ、
と、生きていた頃の彼らの姿を思い出せる。

 思うに、故人に対しては、
その病床で苦しんでいた頃や、
死に様ばかりが印象に残ってしまい、
しばらくは、悲しい気持ちに支配されてしまうが、
その苦しみや亡くなる様に対峙したとき、
我々は、もっと明るい気持ちで
受け止めるべきなのではないだろうか?

 ここ数ヶ月、出産をしたり、
新生児の世話をしていて思ったのだが、
人が生まれるときは命がけなのだから、
死ぬときも命がけ、という意味では、
同じようなものなのではないか?

 そして、生まれて数年は、
自分では何もできずに家族に世話になりっぱなしなのは、
死にゆくひとだけではなく、
生まれたてのひとだって同じなのだ。

 だから、ベッドで寝たきりになって
家族に世話になりっぱなしでも、
それは、赤ん坊が家族に世話されるのと同様に、
当たり前のことなのだ。
 世話する方も、される方も、
何もクヨクヨすることはないのだ。

 そのためには、
病気の子供が入院して治療するように、
死にゆく人が病院において、病気の治療だけでなく、
小児病棟で受けられるような
精神的なケアまで受けられるようにならなければならないと思う。

 「ホスピス」という特別な施設に入ろうと
順番待ちしているのではなく、
死にゆく人を収容する病院や施設は、
最近の産婦人科同様、
ホテルみたいにきれいで明るくて、
サービス満点の病棟になるべきだと思う。

 死ぬことを忌み嫌うのではなく、
生き終わること、
人生を全うして役割を終えることに対して、
生まれたときに言われたように、
「おめでとう」と言われるべきなのではないか?
 人は最後の最後まで
尊厳を保たれるべきものなのだから、
そんなおめでたい最期であった方がいいと思う。

 ボケてバブバブしてしまった親に悲観するのではなく、
赤ん坊に戻っているのだ、
おめでたい最期に向かっているのだ、
と、みんなが思えれば最高だと思う。

 おめでとうで始まった人生を、
おめでとうで終わらせるのは、素敵なことだ。

 だから、大切な人がイマワノキワに立ったとき、
家族が悲壮な顔で、
悲しみに満ち溢れた雰囲気でいるのでは、
死にゆく本人は、淋しい気持ちになると思う。

 生まれたての赤ん坊を愛でるように、
死にゆく人の手を握り、体をさすり、頭をなでて、
彼、彼女が生まれたときのように、
優しく包み込むような気持ちで、
子守唄でも歌って、
明るく送り出せればいいのになあ、と思う。

 新生児と、旧生児。
 裏と表で、表裏一体なのだ。

 きっと、生まれてきたこの子も、
死んでいった彼らも、
私は、生まれる前から、そして、死んだ後も、
ずっとつながっているんだ。

 だから、別れる淋しさを乗り越えて、
出会えた幸せを思おう。
 死ぬことを怖がらず、
生きることをもっと楽しもう、と思う。



      (了) 

しその草いきれ(2005.12.12.)あかじそ作