「 では、どうしたら A 」

 人生を楽しもう!
 ストレスを発散しよう!
 気分転換しよう!
 リラックスしよう!
 自分のペースで生きよう!

 そんなことを今まで何度言ってきただろう。
 水戸黄門の印籠のように、
その言葉をだせば、すべて解決するような錯覚を抱いてきたが、
じゃあ、実際、どうすりゃあいいんだ?

 朝から晩までなんだかんだと忙しく、
自分の容量以上のストレスに押しつぶされ、
そのひとつひとつを洗い流す暇さえなく、
また新しい一日が始まり、
朝から晩まで、なんだかんだと忙しいのだ。

 人生を楽しもう!
 ストレスを発散しよう!
 気分転換しよう!
 リラックスしよう!
 自分のペースで生きよう!

 みんな、理屈では、わかっているんだ。
 そんなことは、とっくに。

 「人生を楽しまねば!
 ストレスを発散せねば!
 気分転換せねば!
 リラックスせねば!
 自分のペースで生きねばならぬ〜!」

 ・・・・・・と、脅迫観念さえ抱いている。
 そう思うが、そうできない毎日に、
余計にストレスを募らせている傾向さえある。


 「では、どうしたら、楽しく、リラックスした人生を送れるか?」

 その具体的なノウハウがわからないために、
目の前の幸せを実感できずに、
「幸せ浪人」している人の、なんと多いことよ。

 まず、最初にひとつ、ぶっちゃけておかねばなるまい。
 私は、いわゆる「片付けられない症候群」の傾向がある。

 物の分類が下手で、部屋を片付けたくても、
「この物は、どんなジャンルのものとして分類したらいいのか?」
ということが瞬時に考え付かず、
とりあえずとりあえず、と、保留にして、
その辺に積み上げておいてしまう。

 たとえば、バスの時刻表。
 たとえば、長男が吹奏楽部で受け持つパーカッションの、
専門楽器屋の連絡先が書いてある紙袋。
 たとえば、興味あることが載っている新聞の切り抜き。

 一応、薬関係とか、洋服だとか、
機械関係とか、学校関係とか、
ざっくりという分類はできていて、分けて収納しては、いる。
 しかし、その分け方だと微妙に違うんじゃないか、
あっちにもこっちにも関連するんじゃないか、と思う物が、
どうしても分類できず、悩んでしまう。 
 たとえば、バスの時刻表は、どこにしまえばいいのか?
 玄関先? いや、それは、何だか邪魔だ。
 重要書類を入れる棚?
 それほど重要じゃないだろう。
 じゃあ、どこよ〜?

 ・・・・・・と、混乱しているうちに、
次々とやらなくてはならないことが押し寄せてきて、
ゆっくり考えている暇がないので、
どんどん保留が増えていく。

 一時が万事、この調子で、
「保留の物入れ」にしている箱は、
いつも満杯で、爆発寸前だ。

 そうかと言って、無理に分類すれば、
あとでどこにしまったのか思い出せなくなってしまう。

 だから、いつも、その辺にいっぱい、
わけのわからない、でも、捨てるわけにはいかない大事なものが、
きちんと整理されないまま、山積みになって散らかっている。

 これと同様に、心の中も、
ひとつひとつの出来事が、
「うれしいこと」「かなしいこと」「さみしいこと」「たのしいこと」などに
分類できずに、整理されぬまま、
とっ散らかっているに違いない。

 小さな心の中に、
数え切れないほどの「わけのわからない感情」が散らかって、
整理できないまま、混乱している。

 最初から片付いていれば、
何か新しい刺激が来ても、
「ポイッ」と、当てはまるところへ分類してしまい、
心も散らからないので、ストレスもたまらない。

 でも、毎日の忙しさや、分類下手によって、
心の中が保留だらけで、足の踏み場もなければ、
新しい刺激が、どんどんその辺に山積みになっていき、
自分では処理しきれなくなってしまう。

 で、あるとき、満杯になって、爆発してしまう。
 処理しきれないありとあらゆる瑣末な感情が、
ストレスとなり、放置されたストレスが自然発酵して、
有毒ガスを発し、大爆発を起こしてしまう。

 私が、気分転換をするのが下手なのも、
この、分類下手からくる、
「心の中も片付けられない症候群」だからなのだ。

 なぜ今、自分がストレスを感じているのか、
原因さえわからなくなっているため、
発散の仕方もわからない。
 で、いつもいつもそんな状態であるため、
ストレスが満タンになったとき、
変なきっかけでキレてしまうのだ。

 では、どうしたら?
 ではでは、こういう人は、どうしたらいいんだろう?

 どうしたら、
 人生を楽しみ、ストレスを発散し、
気分転換し、リラックスできるのか?

 どうしたら、
自分のペースで生きられるのか?

 その具体的な方法は?

 その答えは、この散らかった部屋にある。
 どうしたら、きれいで気持ちのいい部屋になるのか?
 それを考えれば、心の方も片付きそうだ。

 ああ、トイレが汚れている。
 自分はいつもキレイに使っているのに、
男児4人が、それぞれ一日何度もションベンをぶちまける。
 一日何度も掃除しているが、キリがない。

 じゃあ、どうすれば?

 ぶちまけた人が掃除すればよい。
 そうは言っても、やりゃあしない。
 いつも私が怒りながら「自分で拭け!」と怒鳴るから、
余計にやらない。

 今度からは、やさしく、
「汚してもいいのよ。こうやって拭いておけば、後の人は気持ちいいよね」
と、ピクピクする青筋を隠しつつ、見本を見せてやればいい。
 そして、それをちゃんと実践した者を、
「おお、すごい、立派だ、ありがとう、助かるわ、エライ」
と、みんなの前で、大げさにほめちぎろう。
 そうすれば、ほめられたがりの息子たちは、
競ってションベンを拭くのではないだろうか?(甘い考え)

 このように、子供たちから与えられるストレスは、
手間をかけてひとつひとつ解決していこう。
 はじめに丁寧に「こうしてね」と見本をみせて、
自分のことを自分でできた子をほめちぎり、
次からは、こちらに降りかからないように仕向けていこう。

 ああ、部屋じゅう、保留の物がいっぱい!
 細部に至って細かく正確に分類したいがために、
いつまでも分類できずに出しっぱなしの物がいっぱいあふれている。

 じゃあ、どうすれば?

 こだわりを捨てればいい。

 はっきり言って、分類を細かくしていけば、キリがない。
 学校関係だって、子供ごと、年度ごと、プリントの大きさごと、
と、緻密に分けていたら、キリがない。
 大体でいいから、まずは、分けちゃおう。
 細かい分類のこだわりを捨てて、
大体の分類で、分けちゃってから、
暇なときにでもその中を整理すればいい。

 長男が吹奏楽部で受け持つパーカッションの、
専門楽器屋の連絡先が書いてある紙袋は、
「学校関係」でいいじゃないか。
 興味あることが載っている新聞の切り抜きは、
それ専用のファイルを作って、ぶち込んでおき、
時間のあるときに、スクラップブックを作ればいいじゃないか。

 心のこだわりを捨て、
何か嫌なことがあったら、いちいちそのたび考え込まずに、
そのたびに捨てちまえばいいいのだ。
 でももし、どうしてもそのことが頭から離れなければ、 
とりあえず心の中の「嫌なこと箱」にぶち込んで、
心の「居間」にいつまでも出しっぱなしにしない。
 目に付かない小屋裏にでも放り投げておく。
 時間のあるときに箱ごと取り出して、焚き火で燃やしてしまおう。
 そして、その火で芋でも焼こう。
 つまり、嫌なことが溜まってしまったら、
それを一個一個取り出していちいち悩まずに、
なんもかんも一気に焚き付けにし、
「無きもの」としてしまえばいいのだ。

 つまり、時々、意識的に思い切り羽目をはずして、
好きなことを好きなだけやり、
「楽しい思い」を心に満たして、
「嫌な思い」をはじき出しちゃえばいいんだ。

 「気分転換しなくちゃ!」
・・・・・・とか言うと、
どうしたらいいかわからなくなっちゃう人は、
「やっていて嫌じゃないこと」を「後ろめたさ抜き」でやることだ。
 心の平穏を自ら作り出すことは、
生きる上で、必須項目だ。
 それは、身勝手な「快楽」などではなく、心のお掃除なので、
「いいこと」「すべきこと」「必要なこと」なんだから。

 嫌なこと一つ一つを思い出して、ほじくり返すのは、
腐った生ゴミをほじくり返すようなことだから、
(精神)衛生上よくないので、やめよう。

 どうしたらいいのかわからないこと、
どう考えたらいいのか、わからないことは、
人に聞こう。
 「これ、何?」
って、聞こう。
 聞いて、大体の正体がわかったら、
オオザッパに分類しよう。
 「これは、悲しいこと」
 「これは、忘れていいこと」
 「これは、悩まなくてもいいこと」
と。

 大体でいいから分類して、片付けて、、
居間をきれいに保とう。
 さっぱりさせておこう。

 きれいに片付いた居間には、客を呼べる。
 新しいことに対応できる。
 冷静に、ことを対処できるようになる。

 これで、ストレスは、ある程度処理できるだろう。
 マイナスの要素は、片付けられる。


 それから、今度は、人生について。

 人生を楽しむ、って何だ。
 自分のペース、って、どんなだ?

 そこで、私は、自分が何をしているときが楽しいか、
具体的に考えてみた。

 裁縫したり、ペンキ塗りをしたり、木工をしたり、と、
物を作っているときが楽しい。
 また、カントリー調のインテリアや雑貨の写真を見ているとき、
お笑い番組を見ているとき、
大きな声を出して販売の仕事をしているときが楽しい。

 じゃあ、その楽しいことをやればいい。
 一度の人生なんだから、
人の道に反することじゃないかぎり、
その楽しいことを、もっともっとやればいい。

 楽しいと感じることをやって、
もっと楽しい時間を過ごせばいい。
 具体的に目に見える楽しいことをどんどんやる。
 それこそが、人生を楽しむことじゃないか。
 最初から「人生」なんていう、
つかみどころのないものを相手にしていたら、
何もできやしない。
 「今」の連続が、「人生」だ。
 目に見えない「人生」よりも、
今、目の前にある「今」の「今」を楽しく過ごそう。

 それが、人生を楽しむことなんじゃないのか?


 では、自分のペースで生きる、とは?

 自分のペースって、なんやねん、と思う。
 マイペースなヤツは、
最初から意識しないでも生まれつきマイペースで生きている。
 それができないから困っているんじゃないか?

 それができない、ということは、
もしかして、必要以上に人に遠慮しているんじゃないか?
 もし、自分のペースでやったら、
人に迷惑をかけて、つまはじきになってしまうんじゃないか、
と、心配なんじゃないかしら?

 そうだ。この、マイペースじゃない人は、
「身勝手」と「マイペース」の区別ができないんじゃないか?
 そのさじ加減がわからないから、
もし、自分が「マイペース」をやったら、
「身勝手」を犯してしまうんではないか、と心配しているのでは?

 「身勝手」にならずに、自分にとって心地よいペース、
それを「善良なマイぺース」と呼ぶとして、
その「善良なマイぺース」を習得しようと思ったら、
まず、練習しかないのではないか?

 お習字や、お茶や生け花のように、
竹馬や、ベーゴマや、ヨーヨーや、
フラフープや、アメリカンクラッカーのように、
はじめはへたくそで、全然できなくても、
怪我をしながら練習していき、
だんだんと上手になっていくしかないのではないか?

 だから、最初は、きっと、
「自分のペース」をやろうとすると、
やりたい放題やってしまって、
「はた迷惑な、身勝手なマイぺース」をやってしまうかもしれない。
 しかし、それを何度も繰り返していくうちに、
その経験からだんだんと
「善良なマイぺース」ができるようになっていくだろう。

 その道は、平坦ではないだろうが、
一度習得してしまえば、
後の人生は、きっと楽に生きられそうだ。


 それから、ちょっと思うのは、
生きる上で、「自分のスタイル」を確立している人は、
人生楽しそう、ということだ。

 「人生を楽しむ」とか、
「自分のペースで生きる」とか、
何だかよくわかんねえや、めんどくせえや、
というときは、「自分のスタイル」を貫けば、
それが全部解決してくれるんじゃないか、とも思う。

 それは、うちの父を見て思う。

 な〜〜〜んにも考えていないように見える父は、
自分ワールド炸裂で、
人にはまったく理解されないが、
自分のスタイルは、確かに確立し、
適当に楽しく生きている。
 周りの人間も、煙たがりつつも、
しょうがねえなあ、とあきらめて、
案外仲良くしてやっている。


 さあ、では、どうしたら A。

 うちの父、じじじそに習え!

 自分のスタイルを探し、確立せよ!
 日々、練習。 そののち、極楽。

 本能の中高年、じじじそ万歳!


 こんなんでいいのか、結論が?!


       (了)

(しその草いきれ)2006.2.6.あかじそ作