ゆなっちさん 101600キリ番特典 / お題「足」
「 足し算 」

 「たしざん」と、キーボードに入力すると、「足し算」と変換された。
 最近、感じたことを
「たしざん」というタイトルで書こうと思っていたところだったので、
偶然にもお題とピッタリで、ちょっとびっくりした。

 第5子を、6年ぶりに39歳で産んだら、
新たな発見が次々とあった。
 アカンボって、小さいのである。
 いやいやいやいや、そんなの当たり前じゃん、と思うだろうが、
「アカンボって小さいなあ!」
「幼児の体って小さいなあ!」
と思いつつ、まだ若かった10年前の私は、
この小さい未熟な生き物(自分の子供たち)に対して、
本気で苛立ったり、ブチギレていた、ということを言いたいのだ。

 小さくて、まだ何にも知らなくて、
何が何だかわからない生き物に対して、
「そうじゃねえだろ!」
と、連日連夜マジギレしていた。

 今でも、その傾向はあるが、
でも、若い頃の私は、もっとひどかった。

 「そうじゃねえだろ!」
と幼子をぶっ飛ばす前に、
「そう」って何ぞや、ということを教えていないのだから、
子供が「そう」できるわけないのであった。

 「こういうときは、こうなんだよ」
と教えた後に、それをわかっているはずの子供が、
わざと違うことをしたら
「違うだろ」
と言い、
そして、それでも何度もわざと間違いをやるようなことがあれば、
そこで初めて
「そうじゃねえだろ!」
が発令されるべきであった。

 子供の一挙手一挙動に、
いちいち「バカヤロウそれは違う!」とカンカンに怒るくせに、
じゃあ、こういう場合、どうするのが好ましいのか、
どうしなければいけないのか、
ということを冷静に教える、ということを怠っていたように思う。

 シツケを「引き算」でしていたのだ。

 何かやっちまった子供に対して、
「ブブー」と、子供の持ち点から減点し、
失敗を繰り返す子供に対して、
どんどんどんどんペナルティを科し、
どんどんどんどん子供のイキイキした部分を削り倒していた。

 1年おきに生まれた上の子三人に対し、
そういうことばかりしていたせいか、
上の三人は、実に萎縮したところがあり、
今、その反省から、彼らの「イキイキ」を取り戻そうと明るく接してみても、
その回復は、「イキイキ削減」ほど容易にできるものではないのだった。

 かと言って、何をしても、
「いいよいいよ」
と育てられた子供が、学校や社会で
どれだけみんなに迷惑をかけまくっているか、
悪気も無く悪いことをしまくる彼らに、
どれだけ周りが傷つけられるか、
そういうことを考えると、
むやみやたらと子供の「イキイキ」を尊重しすぎるのも問題だ。

 人間というのは、そもそも、「善」という存在だという考えがある。
 それを「性善説」というのだが、その考えでは、
「善」とは、「善悪」の「善」ではない。
 「いいこと」という意味ではないのだ。

 つまり、「性善説」とは、
「人間は生まれたときはみんな善人なのだ。いい子なのだ」
という意味ではない。

 「善」とは、真っ白。
 環境や、働きかけ方によって、
どのようにでもなっていく可能性がある、
ということを意味している。

 だから、子供の「イキイキ」とは、
善悪の分別のない状態を指しているとも言える。
 「子供はイキイキすべきだ」
とよく言われるが、それはつまり、厳密に言えば、
「善悪の分別のないまま大きくなってよい」
と言うことで、これはまずいのではないか、と思う。

 ある意味、子供は残酷なもので、
「それ言っちゃますいだろ!」
ということも平気で言っちゃうし、
「そんなことしちゃうの?」
という、物凄くいけないことを平気でやっちゃたりもする。

 そういうときこそ大人の出番、シツケの出番で、
「それは口に出したら傷つく人がいるんだよ」
「もし、あなたがこう言われたらどう思う?」
と教えるべきなのだ。
 「そんなことをしたら、怪我をするよ」
 「怪我をすると、痛いんだよ。この前怪我したとき、痛かっただろ?」
と、ちゃんと実感できるように教えるべきなのだ。

 キレちゃダメだ。
 「おい!!!!!」
って時ほど、大人は、キレずに激しく冷静になり、
「教え」なければいけない、と思う。
 いや、待てよ。それは無理だ。

 一回、キレて本気で怒って、
そしてその後、落ち着いて、
今、大の大人である自分が激昂した理由は、こうである、
と説明すべきだろう。

 子供は、「善」だ。
 真っ白だ。
 どんな風にもなる可能性があり、
どんな風にでもなる危険もある。

 だから、子供の持ち点から減点ばかりする大人ではなく、
子の心のような真っ白な新雪の上を、
「見よ、こっちじゃ! ついてくるがよい!」
と、ズシズシと先陣をきって進んでいく大人になりたい。
 ならなくちゃ、だわ、と思う。

 子供を、何もない評価ゼロのところから、
「こんなことができた」
「こんなこともやりとげた」
と、たしざんして、
積み上げていくシツケをしていかなければ、と思う。

 よく、子供の学校の懇談会で、親が自己紹介するとき、 
「うちの子は、乱暴なので、何かあったら、すぐ言ってください」
とか、
「臆病で内弁慶で困っています」
とか言う人がいっぱいいるが、
子供本人が聞いたら相当ショックを受けると思う。
 ショックで、ますます乱暴になったり、
内弁慶になってしまうんじゃないか、と心配になる。

 それを言うなら、
「乱暴なところもありますが、ちゃんと落ち着いて話せば理解できる子です」
とか、
「恥ずかしがりやですが、最近はお友達を作ろうと頑張っています」
とか、言った方がいいと思う。

 「今現在、完璧な人間じゃなくったっていいじゃん!」
と思うのだ。

 まだ、生まれて数年しか経っていないのに、
今すでに完璧な人間だったら怖いじゃん、とも思う。

 親でさえ、まだまだ未熟なのに、
なぜ生まれたばかりの子供に完璧を望むんだ、と。

 100からどんどん引き算されて、
10歳前に、すでに自分を「0点」だと思い込んでいる子供が何と多いことか。
 まだランドセルを背負った丸い顔の子が、
「生まれてすみません」
と痛感しながらビクビク生きていることの不憫さ。

 反対に、まだ6点くらいしか「たしざん」されていないのに、
「気に入らないヤツをいじめて、何が悪いんじゃ!」
と、ほざくバカガキが、
社会人として生きていくために必要なシツケを、
親から受けずに大人になってしまう、不憫さ。
 シツケを受ける権利を周りの大人たちに奪われている、
彼もまた、可哀想な被害者だ。

 足していこう。
 ゼロから、足していくんだ。
 時には、大きな失敗をして、
マイナスになることもあるけれど、
その、マイナスになった経験がまた、
次の大きなプラスになる材料になる。

 子供のシツケのことだけじゃない。

 大人だって、そうだ。

 自分は、こんなこともできない、
みんなができているこんな簡単なこともできないのか、
と、低い自己評価をして、落ち込むことがあるのは、
私だけではないと思う。

 でも、
「これはできないけれど、あれはできるし、あれもできるようになった。
 だから、今度は、こんなこともできるように頑張ろう」
と、たしざんで自己評価していけば、
これからの人生に希望が湧いてくるというものだ。

 ああ、たしざん。足し算か。
 
 「足」か。

 40年近く「太い太い」と劣等感を抱いてきた自分の太ももが、
生後3ヶ月の娘の太ももと形が似ている、と最近知った。

 娘の太ももは、ほおずりしたくなるほど可愛い。
 太くて、むちむちで、垢抜けないけれど、
そこが、たまらなく愛らしい。
 将来、娘が、この愛すべき太ももを嫌い、
劣等感を抱いて生きていたら、それは、悲しい。

 自分の子や孫が、
劣等感まみれで生きていたとしたら、
私は、とても悲しくて悲しくて、やりきれない気持ちになる。

 自分を愛し、
自分に誇りを持ち、
明るいほうへ、日の照る方へと、
希望を持って生きていてほしい、と、心から願う。

 私がそう願うように、
死んだじいちゃんばあちゃんたちも、
私や私の子供たちに、そう願っているのだとしたら、
私は、
自分を愛し、
自分に誇りを持ち、
明るいほうへ、日の照る方へと、
希望を持って生きていこう、生きていかなくちゃ、と思うのだ。

 「しまっていこうぜ! お〜う!」
じゃないけれど、
「足していこうぜ! お〜う!」
 と、強く思うのだ。


   (了)

(子だくさん)2006.2.20.あかじそ作