「 ベクトルの先 」 |
43歳。 女性。 子供二人。 離婚して3年、意を決して事業を立ち上げ、 最近やっと親子3人普通の暮らしができるようになってきた。 私は、物心ついてから、ずっと、上昇志向だった。 習い事という習い事に、片っ端から通い、 小学校を卒業する頃には、どの分野においても 人よりも頭ひとつふたつ飛びぬけて出来た。 中学高校は、名門と呼ばれる学校に行き、 部活動では、部長、生徒会では会長を、すべて立候補で受け、 積極的に活動し、たくさんの改革もしてきた。 大学では、経済学を専攻し、 日本経済研究会というサークルを立ち上げ、 そのとき一緒に活動した仲間の一人と結婚した。 外資系の商社で働きながら、 結婚生活との両立も完璧にこなし、 一男一女をもうけ、日本支社初の女性部長にもなった。 ところが、私の完璧主義に付いてこられない部下から 激しい反発を招き、職場の不穏な空気の中で、 会社始まって以来の大きな損失を出してしまった。 責任を取らされる形で左遷されたが、 これは、体(てい)のいいリストラだった。 パートの事務員という地位に格下げされて、 結果的には、辞表を出さざるを得ない状況に追い込まれた。 挫折知らずだった自分の人生に起こった、 死刑宣告のようなこの事件は、 私の神経を蝕み、 助けてくれない夫を恨み、面倒をかける子供たちに怒り、 家庭も崩壊してしまった。 結局離婚して、子供たちを引き取り、 新しく経営コンサルタントの会社を立ち上げたが、 会社といっても、実質動いているのは自分ひとりで、 資金もぎりぎり、常に自転車操業だ。 毎日毎日、なりふりかまわず働いても、 ひと月に稼げる金は、経費を引くと食べるのにやっとだった。 どんな華麗な経歴を持っていても、 どんな一流会社で何億も動かす仕事をしたことがあっても、 一度コースを外れてしまったら、 それは、何も関係なくなってしまう。 「元・○○」という肩書きは、未練や執着でしかない。 私は、「元キャリアウーマン」の、ただのおばさんだ。 思えば、今まで生きて来る間、 私は、どこを目指して走ってきたのだろう。 「キャリア」? 「金」? 「地位」? 「名声」? いや、そんなことは二の次だった。 私は、常に上へ上へと昇りたかっただけだ。 その「上」には何があるのかなんて、 考えてもみなかった。 とにかく、自分の持てる力をすべて出し切って、 行ける限り上に昇っていくこと、その行為自体が、 私の目的だった気がする。 しかし、今、 初めての挫折をし、大きな壁にぶつかって、 それでもまだ上を目指そうとする自分に、 ふと問いかけてみる。 「上」には何があるの? と。 命がけで突き進む、 私のベクトルの先には、 一体、何があるのだ、と。 海外旅行・・・・・・ ブランドに囲まれること・・・・・・ 一流レストランで食事・・・・・・ 優雅な生活・・・・・・ そんなものは、もうやり尽くした。 子供に最高の教育を・・・・・・ 環境のいい住宅・・・・・・ 自分のスキルを生かした仕事・・・・・・ 自分らしい生き方・・・・・・ さて、 「自分らしい生き方」とは? そもそも、自分らしい、とは? 私は、上へ上へと突き進むのが、 自分のいいところだと思っていたし、 それしかないと思っていた。 しかし、それは、 自分が自分に思い描くイメージだけだったのかもしれない。 会社を左遷されるとき、 上司に言われたセリフが、 いまだに私の胸に突き刺さっている。 「君、上昇し続けたら、行き着く先は、天国だな」 天国。 私は、そう言われたとき、 一体どこにいたのだろう。 もしかして、その時すでに、この世から浮き足立って、 あの世にさしかかろうとしていたのだろうか? それならば、あの時会社をやめて、 こうして今、 地べたを這いずり回るような暮らしをしているということは、 生き返ったということなのではないか? 「地べた」を得たのではないか? つまり、もう一度、人間として、 生きるチャンスをもらえたのでは・・・・・・ 小さなアパートで、子供と3人、 ささやかな食卓を囲むとき、 子供たちは、今まで見せたことのないような目の輝きをみせるのだ。 前に、名門私立の学校に通わせていた頃には、 決して見せてくれなかった感謝の意を 私に示してくれる。 あの頃の私は、 「上」に行けば、幸せがあると信じ、 今、現在苦しいばかりの毎日に、 今は我慢、今は我慢、と、 自分にも子供たちにも言い聞かせてきた。 生まれてこの方、 「『上』に行くための下積み」だと思っていた生活の、 この1秒1秒こそが、 実は、人生を形成している細胞なのだ。 人生なんてものは、見えないけれど、 実は、この一瞬一瞬の積み重ねこそが、 人生なのだ。 子供に「おはよう」と言うこと。 おいしく朝食を食べること。 自分に適した仕事をすること。 小さな達成感と、少しの糧を得ること。 家族を助けること。 家族に助けられること。 一緒に食事をとること。 ひとつの話題で笑いあうこと。 喧嘩して、仲直りすること。 「おやすみ」を言って眠ること。 日常の何でもない生活の、 そのひとつひとつが、 人生なのではないか? 「上」も「下」もなく、 「先」も「後」もなく、 「今」「今」「今」の連続を、 ひとつひとつ心地よく感じることこそが、 幸せの原子なのではないか? たとえ、時々、 とてつもなくひどい出来事が起こったとしても、 絶えられないほどの悲しいことがあったとしても、 それも味わうべき人生の一スパイスなら、 「ああ、つらい!」 「ああ、悲しい!」 と、喜怒哀楽総動員で、 感情をたくさん使って、 人生を味わえばいいのではないか? 「人生の悲しいシーン」を堪能するのだ。 とはいえ、「上昇志向」という40年来の自分の癖を、 すぐに直すほど私は柔軟ではなかった。 とりあえず、無理を押してでも すぐに「上」に向かおうとしてしまう自分に、 「上」の意味を知らせようと思う。 「上」には、確かに、 海外旅行があり、 ブランドに囲まれ、 一流レストランで食事するような 優雅な生活がある。 子供に最高の教育をほどこし、 環境のいい住宅に住み、 自分のスキルを生かした仕事をする、 自分らしい生き方がある。 しかし、その先には・・・・・・ やはり血の通った暮らしがある。 生活がある。 子供に「おはよう」と言うこと。 おいしく朝食を食べること。 自分に適した仕事をすること。 小さな達成感と、少しの糧を得ること。 家族を助けること。 家族に助けられること。 一緒に食事を食べること。 ひとつの話題で笑いあうこと。 喧嘩して、仲直りすること。 「おやすみ」を言って眠ること。 そういう幸せを、 むしろ今より強く求めるだろう。 今すでに手にしている幸福を、 一周回ってもう一度手に入れようとしているのだ。 それなら、今、このささやかな暮らしを 一瞬一瞬味わって暮らすことが、 一番合理的ではないか? ベクトルの先は、 今、ここを指している。 無理をして、 自分をどこか素晴らしいメジャーな世界に連れて行くよりも、 大きく深呼吸して、 世界の中心を自分に引き寄せる方がいい。 そう思う。 |
(小さなお話)2006.10.31.あかじそ作 |