「 自分DAY 」

 三男の情緒不安定で家族じゅうが振り回され、
ふと気づくと、兄弟喧嘩が増えていた。
 私も始終怒鳴ってばかりいて、
連日大人気ない親子喧嘩の連続で、
何だか心身ともに疲れ果ててしまった。

 三男に気をつけていると、四男が情緒不安定になり、
四男に気をつけていると、次男がイラつき、
次男に気をつけていると、長男がへそを曲げる。

 誰かを可愛がると、他の誰かが嫉妬し、
「僕も可愛がって」
という無意識の意思表明として、
母親の私に不機嫌をぶちまけてくる。

 そんなことをやっているうちに、母親の私の方がパンク状態になり、
朝から晩まで交感神経がバリバリ張りっぱなしになり、
キーキーキーキー言い始めてしまう。

 すると、私の顔色に一番敏感な三男が荒れ始める。

 嗚呼、エンドレス!!!!!

 その間、ずっとアカンボは、
ニコニコニコニコ笑いながら、子供たちの落とした細かいものを口に入れ、
ギーギーギーギーぐずりながら、熱を出し、喘息を起こし、
へらへらへらへら笑いながら、やっと片付けた大量の洗濯物をぶちまける。

 どんなに私ひとりが気をつけていても、
4人の兄貴たちが、ひっきりなしに、
細かいもの、とがったもの、ビニール片、小さい磁石、
アカンボが食べたら死ぬかもしれない卵やミルクの入ったお菓子などを、
どんどんどんどん居間に持ち込んでくる。

 私ひとりが血相を変えて、
「これ持ってきちゃダメ!」
と怒鳴りながら、必死に片付けているのだが、
子供たちは、キョトーンとしながら聞き流し、
すぐまたどんどんどんどん持ち込んでくる。
 1対4じゃ、まったく追いつかない。
 しかも、のろまの1と、すばしこい4だ。
 勝算0だ。

 しかし、ここで私があきらめてしまったら、
アカンボが危ない目に遭うので、
どんなに子供からうるさがられても、
そのたびうるさく言い続けている。

 持って来ちゃダメな理由は、
みんなわかっているはずなのに、
アカンボのことが、みんな大好きなのに、
何でわかってくれないのだろう?

 今の私は、毎日毎日、
この「母子情緒不安定」と「小中学生とアカンボのいる家の安全対策」、
この二つの問題に、常時悩まされているのだった。

 しかし、12月に入ったある日、
ピョン、といい考えが浮かんできた。

 「今日こそあの子に優しくしましょう」
と、心に誓っても、誓ったその次の瞬間、
その子が弟をめちゃくちゃ殴っているのを見つけ、
思いっきり叱りつけるので、
そのまま嫌な空気になってしまう。

 優しくしようとする前に、説教の必要が先に生じてしまい、
なかなか笑顔の出番が回ってこないのだ。

 そんなわけで、知らず知らずのうちに、
乱暴な子、弟に意地悪な子、ちっとも家の約束を守らない子には、
母親の笑顔は遠ざかってしまい、
そして、その子たちは、ますます荒れていく。

 それでも、子供が一人か二人なら、
いくらでもフォローできる余裕があるのだろうが、
5人ともなると、なかなか全員フォローしきれない。

 理屈や、理想論では、どうにもならない。

 ここは、何か、具体的な対策を立てて、
この状況を打破すべきだと、冷静に考えた。

 「今日は、この子」と、的を絞って、
その日は、たっぷり愛情をかけてやる、というのはどうだろうか?

 いつもみんな、自分以外の子が可愛がられていると、
物凄く嫉妬に燃えてしまうが、
これが規則的に、日替わりで、
確実に自分にも約束されているものだったら、どうだろう?

 題して「自分DAY」。

 「自分DAY」の日は、
家族みんなが、自分を大切に扱ってくれる。
 もちろん、喧嘩をしたり、悪さをしたときは、
いつも通り容赦なく叱られるのだが、
とにかくその日には、自分が、みんなに大事にされる経験ができる。

 「相手の存在をきちんと意識して、その人を大切に扱う」ということは、
将来、家庭でも仕事でも、とても大事になってくることだ。
 これを機会にみんなでそれを勉強しようではないか。

 妻や夫を、
「いるのが当然」「自分のために働いてくれるのが当然」
と、勘違いし、感謝することを忘れてしまうご時世だ。
 自分自分、と自己主張ばかり立派で、
相手の気持ちを想像したり、尊重することができない人間が
量産されている現状だ。

 そんなだから、子供たちにも感謝の心が培われず、
「衣食住揃っていて当然」→「みんなと違う子は変な子」→「いじめちまえ」
となったり、
「みんなが自分に優しくして当然」→「なんで優しくしてくれないの」→「自分なんて要らないの?」
となってしまうのかもしれない。

 子供向けの漫画や映画さえも、バトルものばかりで、
さも、「勝者になることが人生の第一目標だ」と、洗脳しているようだ。

 私たちの暮らしは、実際、忙しすぎる。
 自分に課されたものを必死でこなすのがやっとで、
人のことなんて思いやる余裕も無いかもしれない。

 だからこそ、ここで1回立ち止まって、
心を養う時代を作るべきなのかもしれない。


 昔、戦争があって、
私たちの祖父母は、人生をめちゃくちゃにされた。
 生きるだけでもやっとの時代で、めちゃくちゃな中で子供を育てた。
 そのときの子供が、私たちの親だ。
 めちゃくちゃな時代で育ち、そこでひとつ、大事な何かが欠けた。

 彼らが、親になり、
お父さんになった男の子たちは、
戦後の日本を復興させるために、
家庭を二の次にして、働きづくめだったし、
お母さんになった女の子たちは、
夫に頼らず子供たちを育ててきた。

 自分の子供時代が貧しかったから、
自分の子供にだけは、その苦労を味わわせないように、と、
頑張ってくれた。
 その考えが、また、必要以上に子供たちを過保護にし、
そこでまたひとつ、大事な何かが欠けていったのだ。

 そうやって、戦争の後にみんなが必死で頑張った結果、
日本は、物質的に豊かになったかもしれないが、
人間として大事な部分がスカスカになってしまったような気がする。

 そういう意味では、
戦争は、いまだに、
私たちを苦しめているのだと思う。

 まっとうな暮らしを手に入れるために必死な、
忙しすぎる時代に、
犠牲になったものとは?

 いつも仕事で家にいない、忙しいお父さん、
家事育児と仕事を両立する、忙しいお母さん、
パンパンで余裕の無いカリキュラムを課され、忙しい先生、
部活や習い事や塾で忙しい子供たち。

 そのどこに、
相手を大切にする余裕が生まれるのか?

 ここで1回、
みんなで忙しくするのを、
イッセーのセでやめて、
ゆっくりと人と人とのかかわりを楽しんだり、
互いの存在の大切さを確認しあったりしようではないか?


 さあさあさあさあ、大きく出たよ。
 ご立派な演説を大上段で述べまくっちゃたよ。

 目標。
 人を大切にすることを学び、
人に大切にされることを学ぶ。

 奇しくも1週間は7日で、我が家は7人家族ときている。
 月曜日から日曜日まで、
毎日、誰かの「自分DAY」で、毎週1回、回ってくる。

 人を大切にすること、されることを、
みんなで実践し、習得するのだ。

 習得できたら、「自分DAY」制は、終わり。
 当番の日でなくても、みんな人を大切にし、自分も大切にされる。

 これをやれば、三男も
「自分は誰にも大切に思われていない」
と言わなくなるかもしれない。

 アカンボの「自分DAY」当日に、
子供たちに対して、
「アカンボの命を大事にするために、危ないものは居間に持ち込まないようにね」
と、イベントの一環として提案すれば、
日常の中のたくさんの説教にまみれてしまうことなく、
きちんと頭に残ることだろう。(と、思いたい!)

 時間は、かかるかもしれないけれど、
習得できるまで、やってみよう。
 人間として、大事な「尊厳」というものを、
まずは、家族単位で練習してみよう。

 家族ひとりひとりが、ザビエルよろしく「優しさ宣教師」になって、
それぞれのクラスや職場へ、優しさを広め、
クラスや職場から、学校に、地域に、社会全体に、
じわじわ広げていこう。

 人を大切にすることは、気持ちいいことだ、
人に大切にされることは、豊かな気持ちになれるものだ。

 その快感を広めていこう。
 練習して、癖付けしていこう。


 私にとっても、
家族に大切にされる「自分DAY」が必要なのかもしれない。
 心身ともにバランスのいい家庭を維持するために、
「大切にされる経験」は、何より原動力になるのだから。

 さて、どうなることやら。
 こちらの思うようにスイスイ事が運ぶとも考えられない。
 進行状況は、近々発表。
 乞うご期待!

 (思わぬハプニング発生の予感、アリアリ)



  (了)

(子だくさん)2006.12.12.あかじそ作