「 自分DAY 3 」


 年末年始のごたごたで、「自分DAY」が忘れられがちであったが、
私の中では、まだ生きていた。
 月曜日は、誰それで、火曜日は、誰それ、と、
曜日ごとに対象を決めていたが、
その方法だと、精神的なコンディションやスケジュール的なことなどで
タイミングが合わずに、うまく行かないことがわかり、
曜日設定制は、変更してみたらどうだろう、と思った。

 また、誰それを大事に思おう、大切に扱おう、
などと思っているのは、すでに私ひとりだけで、
子供たちは、とっくにそんな「遊び」には飽きてしまっていた。

 イベントみたいにして、
「今日は、みんなでこの人を大事にするよ〜」
というのも、3週間も続くと、
何だか空々しい感じになってきて、
子供たちは乗ってこないし、
誰の日だろうと、喧嘩が始まってしまえば関係無いのだった。

 「せめて、母親の私だけでも」

 そう思い、「今日は、この子」「今日はあの子」と意識して暮らしていたが、
自分ひとりで突っ走り、振り向くと誰もついてきていないのだった。

 いかんいかんいかんいかん!

 こんなことでは、また、自己チューの集団になってしまうでは、ないか?!

 そうだ、子供たちに「人を大切に」と強要するのは、やめよう。
 親自ら行動し、その姿を見せることで、
子供たちの模範となろう。
 だいたい、うちの子供たちは、
「大切に扱われる」という経験をあまりしていない。
 親からそんな扱いを受けていないから、知らない。
 だから、「人を大切に扱う」ことが、具体的に何をすることなのか、
よくわからないのだと思う。
 考えてみたら、親の私がよくわからないのに、
その子供たちがわかろうはずがない。

 何だかわからないけれど、
やたらとヒーヒーヒーヒーテンパッテいる母親の姿は見かけるが、
それが、自分たちに向けての愛情からくるジタバタなのだ、
ということにまるで気づいていないのだと思う。

 思えば、私自身も、子供の頃は、そうだった。

 私の母親は、毎年のように、PTAの要職に就き、
家のことをおろそかにするほど、学校行事に出ずっぱりだった。
 責任感の強さから、
自分のことも、自分の家庭のこともそっちのけで、
学校行事の遂行に持てる力のすべてをつぎ込んでいた。

 母の意識が外向きになり、
私と弟が淋しい思いをしているときに、
「あんたたちのためにやっているんだよ」
と、力説されても、ちっともピンとこなかった。

 私たちのことを思うのなら、
いじめられて帰ったときに、
ちゃんと家に居て、顔色でわかってよ、とか、
自分ばかりしゃべっていないで、
ちゃんとこっちの話も聞いてよ、と思っていた。

 今、私が、子を想うあまりにジタバタし、苦労していても、
うちの子供たちは、
自分への愛情を実感できていないのかもしれない。

 私は、自分がされていやだったことを子供にもしているのだ。

 私は、母親が「立派な人」でなくてもよかった。
 母には、ただ、笑顔を向けて欲しかった。
 少しくらいオマヌケカーチャンでも、
私のことを大好きでいてくれさえすれば、
それでよかった。

 しかし今、自分がPTAの役員をしてみて、
やはり、これは、
子への愛情がなければできない仕事だ、とわかった。

 子への愛がなければ、
三度三度食事を作ったり、
毎日毎日洗濯したり、
幼稚園の送り迎えをしたり、
両手に泣きわめく子供を抱えて買い物したり、
体調無理して勤めに行ったりなんか、
とてもじゃないけど、できない。

 こういう日々の地味な作業こそ、
愛がなければできないワザなのだ。

 愛がない家事育児なんて・・・・・・
やってられない、っつーの!
 デケマセン!!!

 確かに子供を愛している。
 愛しているからできてきた。
 しかし。

 ダイレクトじゃない、普段使いの愛は、
子供には、(夫にも)伝わりにくい。

 そして、子供の頃の自分もまた、
そんな事情は、まったく理解できなかったのだ。


 親は、日々の暮らしの作業の中で、
へとへとに疲れ果て、
子への愛情を使い切り、
笑う余力が残っていないことがよくある。

 愛しているのに、
愛するわが子に、笑えない。

 愛するわが子は、
目の前で、
みるみる愛に飢えていく。

 体ばかり肉付きがよくて、 
心は、頬がこけ、筋と皮だけになっていく。

 目には見えないけれど、
心をシャレコウベにした子供が、そこここにいる。


 親は、わかってもらいたい。
 親の愛を。
 子供は、わかりたい。
 親の愛を。

 しかししかし。
 
 わかりにくいのだ。
 間接的な愛情は。
 まどろっこしいのだ。

 何でも、わかりやすい方がいい。
 簡潔で、シンプルで、プレーンで、
ストレートな愛情がいい。

 そうだ。
 
 理屈じゃなくて、子供を可愛がろう。
 子供のご機嫌をうかがったり、媚びたりするのでは、なく。

 子供を、
私の力で、
頑張って頑張って、
どうこうしてやろう、
・・・・・・なんて、力むのは、やめて、
ただ可愛がってみよう。

 私は、立派な人じゃない。
 ましてや、立派な親じゃない。

 でも、だからこそ、
必死で子供を育てなければ、と、
肩に力を入れすぎているのかもしれない。

 子供は、親に、
「立派さ」なんて求めていない。
 自分を大好きでいて欲しいだけだ。

 定期的にゲームソフトを買ってやらなくても、
毎週末外食に連れて行かなくても、
携帯電話を買い与えなくても、
年に数回の旅行に連れて行かなくても、
親の愛が通じていれば、
きっと子は、育つ。

 逆に、それら物理的条件がすべて揃っていても、
親の愛がなければ、
きっと子は、終生大人には、なれぬ。

 質素でも、衣食住整え、
日々、親の笑顔を添えれば、
いやでも子供は、巣立ってゆく。


 「自分DAY」は、イベントでも、遊びでもない。
 親自身が、
自分を愛することから始め、
子供の愛し方を学習し、
子供を「愛を知る人」に育てる、
愛情の一大事業だ。

 かつて自分が受けた、
わかりやすい愛、わかりにくい愛を、
すべてかき集めて、よくソシャクし、
からまった糸をときほぐして、
一本のシンプルな愛に編み直していこう。

 方法論は、その後だ。

 嗚呼、愛の研修は、まだまだ続く!!!


        (了)

(子だくさん)2007.1.9.あかじそ作