「 暮らすということ 」

 物心ついてから半端じゃなくひどい鼻づまりで、
常にうっすら酸欠状態で生きてきた。
 その状態が標準仕様になっていたのだが、
何かのきっかけで、ふと、鼻が通ってしまったとき、
凄い量の新鮮な酸素が吸い込めたことで、
びっくりしてしまった。

 息が楽!
 心臓が楽!
 頭がクリア!

 私が、昔から運動が苦手だったり、
異常に物覚えが悪かったり、
しょっちゅう具合が悪くなったりしていたのも、
この「うっすら酸欠」からきていたのかもしれない。

 この「うっすら酸欠」のせいか、
貧乏性のせいなのか、
今までの私の人生は、
「耐えて耐えて耐えて耐えて、ンガ〜〜〜!!!」 
の繰り返しだった。

 いつも何だか浮かない気分で、
どんなときも、どんなことも、「ノルマ」や「仕事」と感じて、
楽しむべきところで楽しめないのだった。

 その上、夫と出会ってから、
常に付きまとう「貧乏」というものに、
疲れてしまっている。

 はじめは、あれこれと工夫して切り抜け、
貧しさを楽しむ余裕もあったが、
元来「ためこんでパッと使う」という性質なため、
「ためこむ金」も「パッと使う金」もなく、
「それは、いくらなんでも無理だろう」という予算の中で
死に物狂いのやりくりを20年も続けているうちに、
気分転換の施しようもないほど
引きこもり的な心持ちになってしまった。

 それでも、子供は、
いっぱいいるべき、産まねばならない、
という義務感が頭の中に蔓延し、
子供の扱いもわからないまま、
産んでは育て、産んでは育ててきた。

 一生懸命を通り抜け、必死、必死で、
必死、必死を通り抜け、耐えて耐えて、という毎日になっていた。

 子供との暮らしは、だんだんと慣れてきて、
問題は山積みではあるけれど、
何とかやっていけている。

 しかし、「生活を楽しんでいるか?」と問われれば、
正直、手放しで
”Yes,T do!”
とは、答えられない状態であった。

 そんなある日、
買い物に行こうと自転車にまたがって、
スーパーに向かって走っていたとき、
次々に、ことばが頭に浮かんできた。

 「生活が基盤である」
 「暮らしが一番のベースである」
 「日常の暮らしのひとつひとつが一番大事である」
 「いくらその上に」
 「立派なものを乗せても」
 「どんな理屈をこねても」
 「足元の基盤ができていなければ」
 「すべて崩れてしまうのだ」
 「足元を整えよ」
 「暮らしを整えよ」
 「衣食住を丁寧にせよ」


 なんだ?
 なんだこれ?

 はじめは意味がわからなかった。
 しかし、思い当たるふしは、あった。

 一番下の子が1歳を過ぎたら、
勤めに出ようと思っていた。
 何か資格を取って、何か立派な仕事に就きたいと、
ここのところ、ずっと思っていた。

 しかし、実際、
部屋を片付けても片付けても、
子供の散らかしに追いつけず、
常にごっちゃごちゃだし、
食事は、栄養バランスを考えて三度三度作ってはいるが、
「これは親の仕事だから」と、義務感でやっていたし、
着る物は、好みのものより安いもので、
化粧もしなかったり、髪もザンバラだったり、
服にご飯粒をつけたまま出かけてしまったりしている。

 生活にうんざりし、
子育てにうんざりし、
人生にうんざりし、
家族にうんざりしていた。

 そんな状況で、
どんな立派なことを言い、
どんな立派な資格をとって、
立派な仕事をしたって、
最終的には、それらは、みんな、
暮らしの上に乗っかっている「ウワモノ」なのだから、
いつかは、総崩れになる。

 世のため人のためになる、
立派なことをしたいと思うならば、余計に、
足元の日常の暮らしを
しっかりとしなければいけないのかもしれない。

 憂鬱な気分を抱き、
イヤイヤの義務感だけで、
毎日の暮らしを維持していると、
きっと、ぐずぐずの基礎で、上に何も乗らない。

 イヤイヤ子供の世話をし、
イヤイヤ家事をしていたら、
それは、「労働」以外の何ものでもなく、
暮らし=ノルマ=ストレス、という感覚だから、
いやになってしまう。
 不安定なところの上に、重いものを乗せたら、
すぐに何もかも崩れてしまうだろう。

 私に聞こえたことばの、本当の意味は、
「家事や育児などの日常の暮らしを『仕事』にしてはいけないよ」
ということだったのではないか?

 「家事育児に振り回される」のではなく、
「家事育児を振り回せ」という意味ではなかったのか?

 「毎日毎日こんなことやっていて何になる」
とも思えるような、日々繰り返される暮らしの営みひとつひとつ、
これらをストレスと感じるのではなく、
逆に、それをすることによって、心が浮かれ、
嫌なこともリセットされていくような状態が望ましいのだ。

 「娯楽」や「気分転換」みたいな「暮らし」こそが、
何もかものベースになっているのでは?

 「暮らし」が楽しめるようになれば、
その上には、モノをどんどん乗せられて、
「経験」が宝になっていく。
 グズグズの暮らしの上に、
どんな立派な経験を積んでも、
ずぶずぶ沈んで結局は、泥の中の石ころになってしまうだろう。


 そんな折も折、
私は、たまたま、棚の中の雑誌を見つけた。
 カントリーのインテリア雑誌だった。
 棚の中を見ると、
そんな本が、何十冊と並んでいる。
 切り詰めて切り詰めて、少しづつ買い集めた、
インテリアの本、手芸の本、大工仕事の本。
 そうだ。
 ずっと前から私は、理想の暮らし像を抱いていた。
 家事育児に追いまくられて、そこからどんどん離れていった。

 「金がないから」
という理由で、自分の大好きなことにフタをして、
我慢我慢で暮らしてきた。
 だから、時々、
生きていること自体がめんどうになり、
やる気を失って落ち込んでしまうのだ。

 そんなことを、もう、20年も繰り返してきたが、
ここいらでもう、その悪循環から抜け出せよ、
という天からの啓示なのか?

 そうだ。 
「暮らし」が、何よりの趣味となるように、
この家を、自分のテーマパークにしてしまおう。
 ディズニーリゾートの年間パスポートを持つのと同じ状態を作ろう。
 そこに居るだけでうっとりしちゃう、自分ランドを作っていこう。
 どんな街よりも、どんな店よりも、
自分好みのインテリアが並び、
自分好みの雑貨を使い、
自分好みの音楽が流れる空間。

 どこよりも素敵な場所=自宅。
 何よりも好きなこと=自宅での生活。

 家事や育児をアトラクションに、
家族をキャストにしてしまおう。

 どんなに子供が思うように育たなくても、
「このキャラは、こうだから、こうだなあ・・・・・・」
と、熱くなり過ぎずに、楽な気分で考えられる。

 どんなに夫がむっつりしていてしゃべらなくても、
「おっさんキャラの着ぐるみ」だと思えばいいや。
 ディズニーランドでも、
ミッキーの着ぐるみは、しゃべらないもんね。
 おんなじ、おんなじ。


 そういうわけで、
昨年末から、私の「自分ランド建設」が始まっている。
 まずは、何年も着ない服や、
何年も使わないものを処分することから始めた。
 だらだらと増え続け、
貧乏性ゆえに捨てに捨てられなかった
大量の「モノ」を家の中から追い出すことから始めたのだ。

 「安いから」という理由で買いまくった、
化粧合板の家具は、丁寧に解体して、木材に戻し、
玄関先の自転車置き場のすのこに作り変える。
 南京虫のわいた昔の本は思い切って古本屋へ。
 ほとんどしまいっぱなしのものは、リサイクルに回す。

 それでも、部屋の中にあふれてしまうモノを収納するのは、
天然素材や無垢の木でできたものに限定する。

 プラスチックのものは、極力廃絶していく。
 捨てるに忍びないものは、
とりあえず子供の部屋で小物入れとして使ってもらい、
少なくとも私の目の届く茶の間には置かない。

 自分で作れるものは、自分で作る。
 作れないものは、市販のものを買って、
後から自分で自分流にアレンジする。

 飾る収納は、私には無理だと、痛切にわかったので、
すべてを棚にしまう、隠す収納に徹する。

 こまごまとしたものを飾ると、
ほこりが溜まりやすく、掃除が大変なので、
極力ほこりがたまらないように、
床と平行の部分を作らない。

 居間のテーマは、昭和。
 台所のテーマは、カントリー。
 トイレや玄関は、ハワイアン。

 場所ごとにテーマを決めて、
それこそアトラクション状態にする。

 更に、子供ひとりひとりに、
個室の代わりに、自分専用のロッカーやスペースを作ってやる。
 男の子は、自分のテリトリーや、誰の所有か、ということに、
物凄く執着するようだから、
ちゃんと全員に「自分の城」を作ってやる。

 今まで息子たち4人、
すべてを共有させていたから、
常に喧嘩が絶えなかったのだ。
 「家族は、いつも一緒よ」
と、女親は、思いがちだが、
実際、男が大人になるためには、
プライバシーも、一人になる時間も、
必要なのかもしれない。

 よし。
 どんどん建築していくぞ。
 自分ランド。

 人から見たら、ただの「模様替え」かもしれないが、
これは、私にしてみれば、
人生を変換させる大工事なのだ。

 夫や子供たちよ。
 きっと趣味性の強い家になるが、気にするな。
 こんなことで一家のオカーチャンが、
生まれ変わったようにイキイキと陽気な性格になり、
毎日の暮らしが爽やかになっていくのだから、
安いものだろう?

 「暮らし方」というものは、
そのままその人の裸の姿を現すのかもしれない。
 今までオカーチャンは、枯葉やヘドロを体に塗っていたけれど、
これからは、裸にエプロンよ。

 キャッ☆
             

  (了)

(しその草いきれ)2007.1.16.あかじそ作