「 後半戦 」


 今年、小学校の役員で責任のある立場になっているのだが、
先日、その仕事の一番の山場を何とか乗り越えて、
久しぶりに「終わった!」という打ち上げ気分になった。

 これは、もう、数年に一度のお祭りだと思い、
アカンボを夫に預け、上の4人の男児を連れて、
ファミレスに夕食を食べに行った。

 「お母さんひとりいくらまでいいの?」
と、おずおずと聞いてくる子供たちに向かって、
「おっ、いくらでもいいぞ、好きなだけ食べな!」
と言いたいところだったが、
「1500円」
と言うと、
「嘘! お母さん、太っ腹!」
とそこここから歓喜の声が上がり、
「僕ロシアンなんたら」
とか、
「ビッグナンチャラスチャラカパフェ」
とか、
「何とかカンとかのもりもり盛り」
みたいな大物を次々注文し始めた。

 しかし、次男がひとり、
渋い顔でいつまでもメニューを眺めているので、
「どうした?」
と聞くと、
「お母さん、食べたいものを全部足すと、1630円になっちゃうよ」
と言うので、
「いいよ、超えても」
と言うと、
「え、ホントに?」
と、信じられないような顔でこちらを見ている。

 「飲み物はどうするの?」
と聞くと、
「え、ぼくは水でいいよ」
と三男が言うので、
「遠慮しなくていいから頼みなさい。今日はせこいことしなくていいんだよ」
と言ってやると、
「ホントにいいの? 悪いよ、そんなの!」
と打ち震えている。

 そんなに?!
 そんなに素晴らしいこと、お母さん言った?

 普段、外食をほとんどしないし、
しても、自分の誕生日に母親と2人で出かけ、
「予算1500円までね!」と念を押されているため、
「みんないくらでも食え」的な母親の発言に、
子供たち一同、どうしていいのかわからなくなっている。

 大体、じじばばというスポンサー抜きで
家族がほぼ揃って外食するなんてことは、
何年もしていなかった。
 私の父の
「焼肉だぞ、何でもいいから頼め、でも俺はカルビしか食わねえぞ」
という掛け声とか、
母の、有無を言わせぬ
「はい、ラーメン8つね!」
という号令がかかる外食が当然だと思っているわが子たちは、
「それぞれお好きなものをどうぞ」
なんて夢のようなことばを言われて、
すっかり舞い上がってしまっている。

 食事がテーブルに揃って、各自食べ始めると、
「うまいよ、お母さん!」
「ドリンクバー行っていい? 次はメロンソーダでいい?」
と、やたらと興奮している。

 私自身は、母親が外食好きだったため、
子供の頃は週に何度も外食をしていた。
 だから、大人になるまで外食を気楽に考えていたが、
自分たちで家計をやりくりするようになったら、
外食がもったいなくて出来なくなっていた。
 そんな贅沢をするくらいなら、
新しい靴下や下着を買ってやりたいと思っていた。
 自分の物を買ったり美容院に行くのをやめて、
生活の予算を子供のためにすべて費やしていた。
 子供たちは、そういう家庭で育ったためか、
この現代に暮らす今時の子供らしからぬ質素な感覚の子になった。
 欲しい物があっても、「欲しい」と言わない子になった。

 しかし実際、そんな必死な私の暮らし方は、
息の詰まるような遊びのない四角四面の生活で、
家族揃って心に余裕の無い、すぐテンパッテしまう状態にある。

 何か想定外の出来事があると、
すぐにパニックになってしまう。

 「生活=基本我慢」だが、
我慢の限界を超えると、
「大爆発」あるいは、「自暴自棄」になってしまう。

 これは・・・・・・いかんね!

 キチキチすぎる生活や心構えは、
結局は自分の首を絞めることになる。
 世の中で日々巻き起こる、ありとあらゆる出来事に、
柔軟な対応がとれなくなる。
 すぐつぶれてしまう。

 かつての私のように。

 我慢も大事だけれど、
我慢だけでは、きっと世の中は生きていけない。
 今まで私の人生は、
「我慢」と「我慢の限界の末のウツ」の繰り返しだった。
 そりゃあ、もちろん、楽しいこともあったけれど、
楽しいことがあるときには、我慢を我慢とは思っていなかった。

 私は今まで、
「人生は、修行だ。無事に一生終わればそれでいい」
と必死に思っていたが、
それだけでは、きっと、本当の意味での「無事」ではないのかもしれない。
 家族を必要以上に締め上げたり、
子供を萎縮した人間に育てるのは、
私以外の人にとって、決して「無事な行為」ではない。

 人生は、ノルマじゃない。
 仕事じゃない。

 ノルマも仕事も山ほどあるが、
イコールじゃない。
 きっと何かの目的のために、ノルマや仕事があるのだ。
 その目的をきちんと定めずに
目の前のノルマや仕事に追われているから、
つらくなるのだ。

 ゴール地点も知らずに全速力で走ったって、
迷うばかりでちっともゴールにたどり着けやしない。

 では、私は、一体、
この人生で、何を目指して走っているのだろう?
 そもそも、私は、「走る」キャラなのだろうか?
 人生半分、目をつぶって両手をめちゃくちゃに振り回し、
「うお〜〜〜っ」と叫びながら生きてきたけれど、
その生き方は、自分のキャラと合っていたのか?

 合っていない気がする・・・・・・

 自分が自分らしく、
楽に息ができる瞬間は、
ひとりでボーッ、と、
空を眺めたり本を読んだりしている時だ。

 必死99%、必死じゃない1%、
という、今の生活は、
もう、この辺で終わりにして、
ここからは、
「目的のために生きる」
という生き方に変えよう。

 その目的自体が、
今は、「無事な毎日」だったりするが、
これからは、先を見通して、
「すがすがしい明日のための今日」
という風に考えてみよう。

 子供は、育てるもの。
 叱ってもいいが、とがめてばかりではダメだ。

 夫とは、協力するもの。
 対立して孤立しあうよりも、2本の太い柱になろう。

 私は、生きているもの。
 イキイキと生きていこうではないか。
 誰の犠牲にもならずに、
誰を犠牲にもせずに。

 人生の後半戦。

 夫や子供たちが外で傷ついて帰ってきても、
私に会うだけで楽になれちゃうような、
明日も元気に出かけられるような、
温泉みたいなオカーチャンになろう。

 カツカツは、もうやめよう、っと。



   (了)

(しその草いきれ)2007.3.12.あかじそ作