「 力の入れどころ 」

 最近、やっと、
自分の心を包む霧がところどころ切れて、
自分がどこにいるのか、ここがどこなのか、
わかるようになってきた。

 思えば、物心つく頃からかかっていたこの心の霧、
霧がかかっていること自体に気付くのに20年を要した。
 つまり、ハタチになるまで
「自分の心がもやもやしたもので覆われている」
ということに気付かぬまま、
ぼんやりと、
傷ついたりうなだれたりしていたのだった。

 そして、その霧の正体が何なのか、
どうすれば気持ちよく晴れるのか、
そんなことばかりに気をとられるような20代を過ごした。

 そのもやもやの中で子を3人産み、
喜びも悲しみも、
その霧の中での得体の知れない刺激でしかなかった。

 30代では、その霧が一層深くなり、
まるで闇の中を手探りで歩いているようだった。
 4人の幼子を両手や背中にくくりつけて、
真っ暗なトンネルの中を出口を求めてさまよっていた。

 生きている行為そのものが苦しかった。

 しかし、そんな暗闇の中に時々光が差して、
一瞬自分の姿や今居る場所が照らし出される瞬間が何度かあった。

 怯えて身を寄せる家族を一筋の光が照らすと、
そこは意外にも気持ちのよい高原の芝生の上で、
怪我をした体のそここに、
誰がしてくれたのか、不器用な手当てがしてある。

 何も見えぬことは不安だ。
 大きな音や突然の振動に怯え、
身をこわばらせて震え上がるしかない。

 しかし、自分は、それでも、
そろりそろりと前へ進んできた。
 荷物が増えても、子供が全員病気でも、
生きることをやめないで歩き続けてみた。

 また暗雲が立ち込めて、真っ暗な闇に包まれたとしても、
それは自分の目が見えないだけで、
いつもそばには家族が居て、
身の上には日の光が降り注ぎ、
自分が思うより安全なところにいるのだ、とわかってからは、
怖がらずに暗闇を歩けるようになった。

 そしてあるとき、何度目かの光が差したときに、
私は見たのだ。
 私の周りにも、たくさんの人々が、
ひとりで、
あるいは、夫婦で手をとりあって、
子供をおんぶしたりして、
転んだり怪我したりしながらも、
一生懸命、歩いているのを。

 また、そういう状況でも、
明るく助け合いながら、
歌いながら笑いながら、
楽しそうに歩いている人たちも大勢いた。

 自分だけでなく、みんながここで、
それぞれ生きていた。
 同じような環境の中でも、
考え方によって、いろいろな生き方ができるのだ、ということを知った。

 私は、怖がりなものだから、
いつもびくびくと怯え、
常に必死で、
必要以上に力を入れて暮らしてきたけれど、
実は、そのこと自体が苦痛になっているのではないか?

 自分のそのスタンス自体に苦しみ、
その心構えが、心の霧を生み出し、
闇を濃くしているのではないのか?

 私が肩の力を抜いて、
自然なままに暮らしていたら、
実は、世の中は
いつも明るい春の陽だまりのようなところなのではないか?

 力を入れすぎていたのか?
 いつもいつも。
 のべつまくなしガチガチに力んで、
常に常に360度に対してファイティングポーズで
「来るな! 怖いこと、来るな!」
と叫んでいるうちに、
楽しいことにも嬉しいことにも、
気付かないで通り過ぎてしまったのではないか?

 40代になって、
やっと肩の力が抜けてきて、
そんな自分の心の癖を知る。
 それと同時に、心の霧が晴れてくる。

 力の入れどころを間違っている自分。
 40年間、緩急のメリハリ皆無では、
そりゃあ疲れ果てて視界も心も曇るわなあ。

 これからは、力の入れどころを決めて、
それ以外のところは、ゆっくりやろう。

 子供の頃から頭のどこかにいつもあった、
「お前は、食うな」
「お前は、こっち来るな」
「お前なんて大嫌いだ」
という怒声を、
大人になった自分が
「そんなことないよ。いいんだよ」
と言ってやろう。
 「あんたは悪い子じゃないんだよ」
「楽しく生きていいんだよ」
と、教えてあげよう。


 ところで、先日、
私を長年暗闇に包み込んでいたこのセリフを
空耳でなく、ハッキリとこの耳で聞いた。

 実家で父親が
自分の孫たち(つまり私の子供たち)に向かって叫んでいた。
 母がいっぱい握っておいた昆布のおにぎりを
子供たちが大勢でばくばく食べてしまって、
自分の分が少なくなってしまった、と言って半狂乱で怒鳴っている。

 「俺の食った!」
 「お前なんてバーカ!」
 「もううちに来るな! 嫌いだ〜!」

 ・・・・・・って・・・・・・

お前かぁ!!!!!

 トラウマメーカーは、
やっぱりお前だったのかい!!!

                  

         (了)

(しその草いきれ)2007.3.27.あかじそ作