「 他人事のように生きる 」


 普通に生きているのに、
なぜか人一倍悩み多き人生を送っているのには、
自分の心構えに問題があるのではないか?

 そう思い始め、
私は、周囲にいる「悩み多き人」の言動をひそかに観察してみた。

 すると、見えてきたのは、
その人たちの「客観性の欠如」であった。

 誰にでも起こりえるエピソードに対して、
ただただ大騒ぎして、
「うお〜〜〜っ」
「なんてことだ〜〜〜っ」
「つらいよ〜〜〜っ」
と、騒いでいるのだ。

 自分の騒ぐ声に耳をふさがれて、
周りのアドバイスも一切聞こえず、
「誰にでもよくあること」を、
「自分に降り注がれる悲劇」としてしか認識できなくなっている。

 つらいつらい、という自分の感情に常に支配され、
助けてくれない周りの人間を恨み、毒づき、
自分の解釈だけで物事を考えるようになっていく。

 そのくせ、他人の悩みに対しては、
びっくりするくらい客観視できる。
 素晴らしく冷静なアドバイスができる。

 要は、他人事だと客観的になれるのに、
自分のことになると、とたんに超主観的になり、
ドツボにはまってしまうのであった。

 つまり、自分のことを突き放して考えられないのだ。

 そのような彼・彼女たちの姿をまじまじと見ていたら、
自分自身もまた、超主観的な人種なのだ、と気付き、
そこんところを改善すれば、
スパッと気持ちよいほど腹の据わった人間になれるのではないだろうか、
と考えたわけだ。

 思うに、世の中には、いろんな種類の出来事が、
誰それかまわずアトランダムにポンポコポンポコ巻き起こり、
たまたま今回自分に当たったその出来事を、どう解釈するかによって、
それは、「悩み」にもなるし、「いい経験」にもなる。

 それを、
「何でいつも俺がこんな目に〜!!」
とか、
「うちの子に限ってそんなこと〜!!」
などと大騒ぎしてしまわずに、
「今回は、私んとこに来なすったか」くらいに受け止めれば、
どんな悲惨な出来事でも、
「つらいつらいつらいつらい」
と、ひーひー言い続けているよりも、つらくない心持ちでいられるだろう。

 私の場合、他人事に対しては、気持ちいいほど客観的に考えられるため、
「スパ〜ン」といい解決策が提案できる。
 しかし、こと自分のこと、自分の家族のこととなると、いきなり、
「いや〜〜〜〜〜〜ん!!!」
と、取り乱し、
「どうしようどうしようどうしようどうしよう」
と、半狂乱になってしまう。

 その極端さは、我ながらうんっっっざりするくらいだ。
 頭ではわかっちゃいるが、
心は、もう、
「キーーーーーーーーーーーーーッ」
になってしまい、悩んで悩んでヒーヒーのた打ち回ってしまう。
 客観性ゼロになる。

 これだ。
 これなのだ。

 私の悩み多き人生を、達観した人生に変化させるポイントは。

 自分を、
自分の人生を、
もう、自分のものだと思うな!

 他人事だと思え!

 それが、超主観的な人間が、達観できるコツだ!

 「色即是空」とか、「諸行無常」とか聞くと、
頭の中では、「そうだよなぁ、すごくいいこと言ってるよなぁ」
とは思うが、じゃあ、実際、
日常生活の中でそのことをうまく噛み砕いて生きているか、
と問われれば、ぜんっぜん解釈できていないのであった。

 それならば、下世話な俗世間に生きる私は、
下世話な俗のことばを使って考えてみればいいんだ、と思ったのだ。

 そう。
 自分のことを他人事のように考える!
 私のことを、「どこかの誰か」と思えば、
何が起こっても、全然動じない。
 いちいち些細なことでひーひー悩まなくて済む。

 「それじゃあ、自分らしく生きられないじゃん」
と突っ込まれそうだが、
何か起こるたびに半狂乱になって、
ギャーギャー騒いで家族を傷つけて、
それが自分らしい生き方なら、
私は、もう、そんな「らしさ」は、要らない。

 「ぴや〜〜〜」っと涼しい眼で遠くを見やり、
「春ね」なんて、微笑んでいたい。
 何か大ごとが起こっても、
「大丈夫。こうしましょう」
と、微笑みさえ浮かべて気持ちのよい裁量を見せたいものだ。


 そんな中、さっそく、中3の長男が、
部活でいわれなき濡れ衣を着せられ、
顧問に連日責め立てられている、という問題が起きている。

 「もう学校へ行きたくない」
と泣いている長男に、
「何!!!」
と、いきり立ち、学校に文句を言いに行こうとしたが、
そこは踏みとどまって、
(よそのうちのよその子のことだとしたら、どう思うか)
と、自問自答してみた。

 「今は、この子の成長段階」
 「まずは、自分で濡れ衣を晴らそうと努力すべき」
と思った。
 「部員はみんな、あの感情的な顧問に何回もやりこめられたことがある。
今回は、この子の番だ」
とも思った。

 そこで、私は、長男にこう言ってみた。

 「親が死んだり自分が大病したりする、そういう大きなストレスに耐えられるように、

子供の頃から『ストレスの予防接種』を打ち続けるんだよ。
 いきなり大ショック起こして死なないようにね。
 今回のこれも、痛いけど、予防接種だから、受けとけ」

 長男は、少しうなずき、
しかし、また、憂鬱な顔をして、
「疑われるのは本当に嫌だよ!」
と頭を抱えた。

 「やましいところが無いのなら、堂々としていなさい!
やっていないなら、謝る必要も無い。
 ただ、どうしてもわかってもらえなかったり、
我慢しても我慢しても、もう耐えられなくなったら、
そのときは、お母さんに考えがあるから、まかせとけ。
 お前は、安心して学校へ行って、堂々と勉強してきなさい」

 「うん、わかった」

 そう言って長男は学校へ行ったが、
実は、私には「考え」なんて無かった。
 「学校に怒鳴り込む」とか「相談室に駆け込む」
ということもできるだろうが、
この子ならきっと、
「僕には、すげえバックが付いているから大丈夫」
と思い込むだけで乗り越えられるはずだ。

 これから先の人生も、たくさんつらいことがあるだろうが、
この思い込みをお守りにして、
自分の力で生き抜いて行って欲しい。


 さてさて、他人事だと思わなければ、
私はきっと、今回も、
子供と一緒になってパニックになっていただろう。

 子供が高校生になっても、大学生になっても、社会人になっても、
「うちの子をいじめないでください!」
と怒鳴り込む親になりかねない。
 子供の成長の機会を奪いかねない。

 ああ、危なかった。


 しかし、客観的に自分の人生を生きるのって、
なんて面白いのだろう。
 まるで、臨場感たっぷりの映画を見ているみたいだ。
 参加型実写ロールプレイングゲームみたいだ。

 「次々巻き起こる事件に、あなたならどう立ち向かうか?!」
・・・・・・みたいな!

 自分の考えた、かっちょいい名ゼリフを、
ミエをきりながらバチッと言えるのも、気持ちいいなあ。
 相手が、思うように動いてくれないのも、
ある意味醍醐味だし・・・・・・。


 ああ、「自分の人生を、他人事のように、しかし、熱く生きる」。
 こりゃ、オツだねえ。



     (了)

(しその草いきれ)2007.4.24.あかじそ作