「 善良宣言 」


 子供の頃も、大人になってからも、
所帯を持ってからも、子供を持ってからも、
生きていると、どんどん新しい課題や難問が出てくるものだが、
そのたびに過剰反応し、
「え〜!」
「どうしよ〜!」
「やばいよ〜!」
「キーッ!」
「悔しい〜!」
「憎い! 許せん!」
的な気分になることがある。

 しかし、だ。

 きまっていつも、
そのマイナスの強い気持ちが
自分の精神や体調を狂わしていた。

 対象の相手や、トラブルそのものよりも、
そのことによる自分の負の感情が、
自分自身を疲弊させてしまうのだ。

 そのことに気づいたのは、つい最近で、
それからは、
「罪を憎んで人を憎まず」
「猜疑心で狂うより、だまされる瞬間まで信じきろう」
「人を呪わば穴二つ」
ということを心がけてきた。

 その方が気が楽だからだ。

 だまされないように、
損しないように、
被害をこうむらないように、
と、
そういうことばかりに気をもんでばかりいると、
被害をこうむる前に、
自分の発する心の毒にやられてしまう。

 子供がいじめられたらどうしよう、
何か嫌なことが降りかかってきたらどうしよう、
と、常に不安がり、
ちょっとのことで過剰に反応してしまうより、
「生きていれば、必ず嫌なことに関わってしまう時がある」
と思っておいて、
そのときに冷静に対応できるように、
あらゆるケースを自分のことに置き換えて
シュミレーションしておけばいい。

 要するに、
まだ起きてもいないことにビビり過ぎて
せっかくの今の平穏な時を、
わざわざ暗い気持ちにしてしまうのはやめよう、
ということだ。

 心配だ心配だ、
とただただおろおろしたり、
ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、
といたずらに不安にかられるより、
冷静にことに備えて準備し、
そして、あとは、気楽に過ごすのがいい、と思うのだ。

 まあ、つまり、「人事を尽くして天命を待つ」、
ということなのだろうが、
このことばを学生時代に先輩に教わってからも、
ただのことばの知識としてしか思っておらず、
最近までちゃんと実践にうつせずにいた。

 何もしないで、ただ心配ばかりして、
「幸せな今」を暗い気持ちで過ごしていた。

 何て勿体無いことをしていたのだろう!!!

 子供たちが小さい頃の写真を見ると、
くりくりお目々の可愛い子供たちの後ろに、
暗い表情の若い母親の顔(私だ!)が写っているのだ。

 こんなにあどけなくて可愛い幼児たちに囲まれて、
女の幸せの頂点にあるような状況で、
この母親は、何て暗い顔をしてるのだろう!

 確かにその頃は子育てが一番大変な時期で、
助けてくれない夫を恨み、
子供がうるさいと苦情を訴える近所のおばさんを恨み、
泣き言を一切受け付けない両親を恨み、
意地悪ばかり言う姑を恨み、
孤立無援のような一切の状況を恨んで生きていた。

 よその家庭をうらやみ、
何をやっても要領の悪い自分にイラつき、
過去の辛い経験ばかりを頭にフィードバックさせてばかりいて、
自分を過小評価しては、
自らどん底気分を作り出していた。

 しかし!
 しか〜〜〜し!

 そういうテンションのところに
楽しい出来事が起きても、
楽しいと感じる感受性が鈍っているから、
何をやっても楽しくないし、
嬉しい出来事が起きても、
嬉しいと感じる感受性がさび付いているから、
何が起きても嬉しくも何ともない。

 そのくせ、
「苦悩」「悲劇」「被害」「トラブル」「悲哀」
みたいなキーワードに関しては、
バリバリ感受性が鋭くなっていて、
過剰に反応してしまう。

 だから、何が起きても、
その中での悲劇的要素ばかりにクローズアップしてしまい、
「自分は悲劇の主人公だ」
というような解釈をしてしまう。

 あほか!
 これ、あほだろ!

 周りが全部悪いんじゃないのだ。
 自他に向けての恨みつらみの感情の衣が、
自分の人生を暗くしているだけなんだから、
明るい幸せな人生を送りたいのなら、
そういうイヤなものは、即刻脱いじゃうに限るのだ。

 要は、何でもかんでも、
解釈の仕方によって、
物事は、どうとでも受け止められるという事だ。

 塩コショウしか持たぬ人間に
甘いケーキは作れないし、
砂糖しか持たぬ人間に
パラパラの海鮮チャーハンは作れない。

 それと同じように、
「恨みつらみ」しか持たぬ人間に
「感謝の気持ち」が持てるわきゃないのである。

 もっといろいろな調味料を駆使して、
自分の人生をいろいろに味付けした方がいいんじゃないか、
と、そう思うのだ。

 だから私は、どんなにイヤなことが起きても、
何でも「いい風に考える」という癖をつけようと思っている。

 自分に湧き上がった
不安や怒りや憎しみや疑いなど、
負の感情を全部まとめて、
「おやおや困りましたね」
というひとつのやんわりとした感情として
認識するようになりたいと思う。

 いつも善良な気持ちで落ち着いていて、
周りからしじゅう吹っかけられる難題を、
「ほほう」
と受け止め、
合気道の大先生みたいに、
指先ひとつで右に左に軽く転がしてやりたいものだと思う。

 以前、大学で心理学を学んでいたとき、
こう習った。

 「善」とは、
「正義」という意味ではなく、
「何の既成概念も無い、まっさらな、まっすぐな気持ち」
のことである、と。

 これは、結構凄いことだ。

 「人は生まれつきみな善である」
という「性善説」も、
「みんな生まれたときはいい人なんだよ」
という意味ではなく、
「生まれたときは、良くも悪くもなく、ただまっすぐなんだよ」
という意味らしい。

 これにならって私は、
「まっすぐな善」を目指し、
そして、
「良いか悪いかと聞かれれば、どちらかといえば『良い』で」
という構えで行こうかな、と思う。

 だから、今ここに
「善良宣言」をしたいと思う。

 複雑で、難しく、
生きづらく、せちがらい
この時代を、
さく〜〜〜っとした「善良」な気持ちで生きたいものだと思う。



   (了)

(しその草いきれ) 2007.10.9.あかじそ作